
小渕首相が亡くなった。62歳だった。今の高齢化時代からすると、まだまだ、これからという年齢だ。
心から哀悼の意を表する。私はこの人が首相に就任した時、意外に長期政権になるのではないかと感じていた。
茫洋としたつかみ所のない風貌は、日本人の好むタイプである。外見と比例して、国会での質問の受け答えにも、
自分ならどうするとか、これからの日本をどういう方向に持って行きたいとか、明確な方針のないまま数をバックに
危険な法律を次々に成立させていった。かつての国会では考えられなかった事だ。
野中さんが影の首相だとか、いろいろ言われていたが、現に首相であったのは小渕さんである。
失礼な言い方ながら、首相にはおおよそ向かないような人が、はからずも数の論理にのっかって首相の座に
ついたような気がしてならない。この人の死は、まったっくの過労死であろう。
今日のような激動の時代には、よほど精神的にも肉体的にもタフでなければ一国の首相は務まらない。
この人の首相時代を振り返ってみよう。通信傍受法案を手始めに国旗、国歌法案など戦後の民主主義の根幹を
揺るがしかねないような法案を易々と通してきた。過去には考えられなかった事だ。
今や自民党、公明党、保守党という三党連立の中で、向かうところ敵なしの状態である。
非常に恐ろしい気がしてならない。
そこへ持ってきて今回の森首相の発言である。これを見過ごしてしまって良いのだろうか。
私達が若い頃、赤旗を振ってデモをした、かつての安保反対やベトナム戦争反対だといったものとは全く異なる異常
事態だと言わざるを得ない。自分の発言を撤回しようとしないこの人の態度の裏側には、数へのおごりと憲法改正を
意識しているように思えてならない。まさに、自民党の憲法改正へのレールは敷かれたと言っても良いのではないだろうか。
もし、今度の衆議員総選挙で自民党が圧勝するような事があれば、とんでもない事態になることは火を見るより
明らかである。私達はよほど心して、今回の総選挙に臨まなければならない。
若い人達も選挙から遠ざかるのでなく、積極的に参加して自分の意志表示をしなければならない。
いたずらに騒ぎ立てる必要はない。自分たちが投票に行って、自分の信ずるところを一票に託せば良いのである。
投票する人がいないからとか、政治なんか誰がやっても同じ事だとか、面倒くさいとか言っていると、いつの間にか
憲法は変わってしまい、再び、戦前と同じ長く暗い道を歩かざるを得ない事になる。自衛隊は軍隊として認知され、
徴兵制への路線は意外に早いのではないだろうか。
憲法改正について
憲法は国民生活の根幹を支えている大事なものである。私たちが自由にのびのびと生活できるのも憲法の
おかげである。戦前、はがき一枚で戦場に多くの若者が送り込まれ、死んでいった。
それは天皇を中心とする憲法があったからである。天皇のために命を投げ出すことを余儀なくされ、そういった
教育を受けてきた。今の乱れた風潮を教育のせいだと決めつけて、教育制度の改革を目指している。
森首相の神の国発言も、戦前の教育勅語の発想の延長線上にある事は間違いない。
戦後の画一的な教育の責任を棚に上げて、今の教育を論ずるのは正に天に向かって唾を吐くようなものである。
自衛隊は軍隊である。しかし、正式に軍隊として認知できないのは憲法第9条があるからである。
なし崩し的に大きくしてきた自衛隊を、既成事実として国民に認めさせるには憲法9条の改正以外にはない。
自衛隊はそもそもGHQ(アメリカ軍)が朝鮮戦争の際、占領地である日本の治安維持と後方支援の部隊として、
旧軍人達をかり集めて作らせた警察予備隊が前身である。警察予備隊は朝鮮戦争終結後も解散させられることもなく、
連綿として今日まで続いてきた。国内の治安を守る事と、国を守ると言うことは、まったくのべつものである。
国内の治安は警察の仕事だ。自衛隊があるから憲法9条は合わないと言うのは本末転倒である。
憲法はアメリカから押しつけられたものだという主張がある。自主憲法だと自民党は言っている。
だったらアメリカのご都合主義によって、GHQに組織された自衛隊は押しつけられたものではないのだろうか。
戦後50年間も何ら問題なく、しかも世界のどこに出しても恥ずかしくないような平和憲法を変える必要性が
どこにあるのだろうか。50年間も寝起きを共にしてきた憲法は、仮に押しつけられたものだとしても、立派な
私たちの憲法である。
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