ベトナム紀行
10月30日(土)
早朝、船はゆっくりと海からメコン川の河口に入っていった。むっとするような湿気を含んだ風
は心なしか生臭い匂いがした。これが大河メコンの匂いなのだろうか。魚河岸には魚河岸の匂
いがあるようにメコンにはメコンの匂いがあるようだった。
河口付近にも人々の生活があった。そして、大きな河口の両岸には広大なマングローブ林が
広がっていた。マングローブ林と河との境目には網が仕掛けられていた。マングローブ林の豊
かな資源である蟹や魚を獲る網だろうか。網のそばには小さな番小屋があり人の姿があった。
河を更に遡ると河の中程に大きな網が河の流れをさえぎるように何カ所か仕掛けられていた。
先日のテレビで見た魚を獲る網であった。潮の満ち干にのってこの河を上り下りしている魚を
獲る網だった。テレビでも見た大きな網の一角には鳥の巣のような小さな小屋があった。網を
仕掛けた人は、ここで寝起きをしながら時間がくれば網を引き上げて、かかった魚を獲るという
漁法だった。獲った魚は船が来て引き取っていくようだ。
マングローブ林はベトナム戦争当時、アメリカ軍の枯れ葉剤によって壊滅的な被害を受けた。
見渡す限りの広大なマングローブ林が枯れてしまったのだ。そして、戦後、営々として人々の手
によって植林が行われてきた。その結果、私達が目にしているような見事な森となって蘇って
いた。
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いよいよ船はメコン川の下流域にさしかかった。この川の流れは決してきれいではなかったが、
それだけに漁業資源などは豊富なようであった。いつかテレビでも紹介されていた潮の満干を
利用して魚を獲る長い網が川の中央に張ってあった。(写真左)
一度はアメリカ軍のナパーム弾に焼かれ、枯れ葉剤で破壊されたマングローブ林だが、
ベトナム戦争後、人々のたゆまぬ努力により見事に蘇った。同じ高さのマングローブが
一面に広がって素晴らしい景観を作っていた。(写真右)
船はやがてベトナムのブンタウ港に入った。港には青色の色鮮やかなアオザイを着た若い
女性達が出迎えてくれた。そして、今日の交流会プログラムの関係者と思われるような人達も
大勢来ていた。早朝だというのに港は大変な賑わいだった。
その内、音楽に合わせて踊りが始まった。何という歌なのだろうか。何となく親しみを感じる曲
だった。その歌に合わせて青いアオザイ姿の女性達が白い傘を持ち、大きな輪になって踊りを
見せてくれた。とても優雅で美しい踊りだった。
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着岸したブンタウ港の眺め、遠くには石油コンビナートのような工業地帯が見えた。(写真左)
大勢の人達が幾つもの赤い横断幕を出迎えてくれた。(写真右)
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やがて、目の覚めるような青いアオザイを着た若い女性達が白い傘を持って踊り始めた。
それは整然として実に優美な踊りだった。私は船のデッキから写真を写しながら見ていた。
青い服はアオザイの女性ばかりではなく出迎えの人達の統一カラーなのだろうか。
男性の中にも青いシャツの人がたくさんいた。
出迎えの女性は総じてスタイルが良く美しい人が多かった。
こうして、第一日目の旅は始まった。私達は神戸から一緒だったMさん達と同じ1号車だった。
同じコースを回るツアーだったが、3、4号車と1、2号車とは午前と午後のスケジュールが反対
になっていた。
私達は午前中ジャングルクルーズがあったので船着き場のあるミトーへ向かった。ブンタウ港
からバスはいくつもの町や村を車窓に見ながら走り続けた。そして途中で遅い昼食をとった。
立ち寄ったレストランはメコンデルタの細い水路沿いにあった。水路の向かい側はデルタ特有
の植物が鬱蒼と茂ったジャングルだった。レストランの中は美しい花が咲き良く整備されていた。
また、椰子の葉で屋根を葺いた雰囲気のある建物が何棟も建っていた。私達のような観光客
専門のレストランのようであった。白人の観光客も何組かいた。
最初に出てきた料理はエレファントフィッシュという淡水魚を唐揚げにしたものだった。昔は
このデルタにもたくさんいたそうだが、今はほとんど養殖に頼っているとの事だった。味は淡泊
で淡水魚特有の臭みはなかった。この身をほぐして野菜等と一緒にライスペーパーに巻いて
食べた。その他、春巻きの唐揚げや鍋で肉やイカと一緒に野菜を煮たものが出た。これぞと
思うベトナム料理は餅米で出来た丸いものの唐揚げだった。時間がたつと油の中で次第に丸く
ふくれてバレーボールほどの大きさになった。これをレストランのウエイトレスが鋏で切り分けて
くれた。香ばしくてもっちりとした非常においしいものだった。ベトナム料理は総じて日本人の好
みに合うようだった。
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では車窓から垣間見た人々の生活を紹介しよう。
これは五十万ベトナムドンという巨大な数字が印刷された紙幣だ。ベトナムは極度のインフレで通貨単位は
どんどん大きくなっているとの事だった。(写真左)
総じて人々の生活は質素である。フィリピンでも感じた事だが日本の昭和三十年代とどこか似通った感じだった。
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私達が乗ったバスが走っているのは国道であろうか、いずれにせよ主要幹線道路に違いない。
その道沿いには庶民の生活があった。田舎には田舎の街には街の生活があった。
小さな家の前では簡単な雨よけをして何か売り買いしていた。(写真左)
ベトナムでも私達と同じようにお米を食べる。まだ穂の出ていない青田が広がっていた。(写真右)
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椰子の葉で屋根を葺いたこの建物は喫茶店である。大きな道路を行き交う人達が休憩に使っているようで
家の中にはハンモックが幾つもあった。どうやら喉をうるおすだけでなく仮眠もとるようだ。(写真左)
この国の主要な移動手段はバイクだ。こんな家族連れのバイクを何台も見かけた。(写真右)
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きわめて質素な家もあれば日本でも高級住宅に属するような家もあった。こんなところにも貧富の差は現れていた。
左は新築したばかりの家のようだ。右は三階建てであろうか門構えの立派な家だった。
大きな道路と小さな町との交差点。
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途中トイレ休憩をしたショッピングセンター。色んな店があり品物も豊富だった。
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ショッピングセンターのあったところは大きな町だった。道路を挟んで向かい側にも店がたくさん並んでいた。(写真左)
この町を後にして更に大きな町へと入っていった。トヨタの大きな看板を見つけた。(写真右)
町の中は埃っぽく雑然としていて決してきれいだとは言えなかった。
また、広い緑地帯もあったが今は雨期だというのに散水をしていた。
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道のほとりでは色んな物を売っている。中でも代表的なのは椰子の実を売っている店だった。(写真左)
メコン川だろうか、泥水のように濁った川も、ここの人にとっては大切な川である。(写真右)
この川に依存して生活している人もたくさんいる。
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いよいよバスは大都会に入ったようだ。町の中には色んな建物が屋根を接するように建っていた。
この一角は高級住宅街だとのことで一戸建ての住宅やマンション風の建物がたくさんあった。
また、高級住宅だと言われている建物は総じて明るい色を基調にしていた。(写真左)
緑地帯を挟んで幾本もの道が併設された大きな道路だった。私達のバスは、この大きな道路の跨線橋の上にいた。(写真右)
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アオザイを着た若い女性のバイク姿も格好良かった。(写真左)
また、女学生は白いアオザイと決められているようだ。(写真右)
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実にバイクが多い。いずれは自家用車に変わっていくのだろうが、その時の大渋滞が予想されるようなバイクの数だ。
バイクは色んな国から輸入されているようだが、やはり日本製が故障も少なく一番人気があるようだ。
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人や物の移動手段は自転車、バイク、数は少ないが自動車のようである。
しかし、この国では人間の力も主要な移動手段だ。日本では忘れ去られた天秤棒で荷物を運ぶ姿を何回も見かけた。(写真左)
これは湿地帯(と言うより下はメコン川の一部)の上にビッシリと建ったトタン葺きの家々。最下層に暮らす人達の家であろうか。(写真右)
この国は社会主義の国である。しかし、貧富の差は大きい。持てる物と持たざる物の格差は歴然としているようだ。
一般に官僚と言われる人達は破格の生活をしているようだ。また、俗に言う「袖の下」という表には出ない収入も多いようだ。
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お国変われば品変わると言われるように、フィリピンでの主要建築資材と言えばコンクリートブロックだったが
この国ではレンガだった。赤いレンガはレンコンのように長細い穴が空いていて軽そうだった。(写真左)
これは仏教寺院だろうか、派手な装飾が施された建物だった。(写真右)
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周辺の川で獲れた魚であろうか、たらいや洗面器に色んな魚を入れ、道行く人に売っていた。(写真左)
そんな魚を養殖している池が郊外にはたくさんあった。(写真右)
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そんな養殖池や湿地帯も大規模に埋められて鉄道を敷く準備が進められていた。(写真左)
これはバイクを売っている店のようであった。新車と思われるバイクがずらりと展示されていた。(写真右)
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昼食はベトナム料理だった。総じて油を使った料理が多かったが意外に脂っこさは感じなかった。
日本人が好む料理ではないだろうか。
左の写真はエレファントフィッシュという魚の唐揚げだった。魚の形が象の耳に似ていることから名付けられたようだ。
この身をほぐして香草などと一緒に生春巻きのようにして食べた。
この魚も以前は周辺でたくさん獲れたようであるが、開発が進むに連れて少なくなり、今では大半が養殖ものになっている。
右の写真は春巻きの唐揚げのようだった。
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何とも奇妙なものだが、油で揚げている内にどんどん膨らんでドッチボールくらいの大きさになった。
春巻きの皮のように米粉で作っているのだろうか。これを右の写真のようにウエイトレスが切ってくれた。
なかなか香ばしくて美味しかった。
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何というエビだろうか。日本の手長エビに良く似たエビだった。(写真左)
ネギのようなものに魚のすり身を巻いて天ぷらにしていた。(写真右)
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昼食を食べたレストランは川のほとりにあった。流れは実に穏やかでエンジン付きの小型船が行き来していた。
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レストランは清潔でお客の大半は観光客のようであった。白人の観光客もたくさん来ていた。
庭には緑がいっぱいで、こんな色鮮やかな花が咲いていた。
ここを出てしばらく走るといよいよ船着き場に着いた。30人乗り位の小さな船でガイドさんの
説明を聞きながら河の中に点在する島の一つに渡った。これらの島はメコン川が運んできた
土が堆積し、そこに木々が根を下ろし島となったものだった。島には色んな植物が生えていた。
また、この島はここに住んでいる人達の生活の場でもあった。ココナツ椰子から飴を作って
おみやげ品として売っているところや島内でとれる果物を食べさせてくれるところがあり、養蜂
をしている人やチクロという乗り物でお客さんを運ぶ人、また、観光客のジャングルクルーズの
船を動かしている人など様々であった。ジャングルクルーズに使われている船の多くは夫婦船
だった。中には子供連れの船もあった。
元の船着き場までの10数分間はジャングルの中を流れている迷路のような水路を手こぎの
ボートで案内してくれた。そして、この島に渡るときに乗った船で対岸の船着き場まで戻った。
帰りの船の中では椰子のジュースを飲ませてくれた。少し甘みのある果汁だった。意外に青臭
さは感じなかった。
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いよいよ、今回のツアーの目玉である「ジャングルクルーズ」に向かった。
観光バスを降りて渡し船で向かい側の小さな島に渡った。この島はメコン川が運んできた大量の土砂が堆積して出来た島だった。
島に降り立つと早速、土産物店に案内された。ここでは椰子の汁を煮詰めて作ったという飴を製造販売していた。
燃料は汁をとった後の椰子殻を使うという無駄のない方法だった。
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島と言っても浮洲のようなもので、至るところに迷路のような水路があるようだ。(写真左)
観光の途中で一休み。テーブルの上には色んなトロピカルフルーツが置いてあった。(写真右)
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この島は、島全体の人が観光に依存して生活をしているようであった。
島の中は植物園のようになっていて、色んな種類の熱帯植物や果樹があった。
島の中での移動手段はバイクの後ろに荷車を付けたような乗り物だった。これにお客を乗せてでこぼこ道を猛スピードで走る。
そして、クルーズ用の小さな船に乗ると、親子や兄弟、中には若い夫婦が赤ちゃんを脇に寝かせながら
密林の中を漕いでくれる。(下の写真)
何という実なのだろうか。大きな実が幹の途中からぶら下がっていた。(上の写真左)
これは日本でも沖縄まで行くと普通に見かけるパパイヤだ。(上の写真右)
島への行き帰りに観光案内してくれた男性は、たどたどしくてお世辞にも上手だとは言えない日本語だったが
独学で勉強したという。その苦労は察するにあまりある。船着き場には学校の先生をしているという奥さんが
迎えに来ていた。
船着き場付近では大勢の子供達が水遊びをしていた。大きな声ではしゃぎながら水の中へ
飛び込んでいた。私達の目から見ればとても衛生的とは思えないほど濁った水だった。しかし、
この国に生まれ育った子供達にとっては、お父さんやお母さんの代からこの水に親しんできた
わけで、そんな事はまったく気にしていないようであった。
今回ジャングルクルーズの案内をしてくれた男性は独学で日本語を勉強したと話していた。
多少は変な言い回し方もしていたがとても独学とは思えなかった。また、奥さんという若い女性
が船着き場まで来ていた。学校の先生をしているとの事だった。別れ際に彼と彼女の写真を
撮らせて貰った。
私達は夕暮れの中に消えていく道縁の景色を見ながらホーチミン市まで引き返した。そして、
遅い夕食を済ませ宿に入ったのは夜の9時近かった。日本では11時を過ぎた時間だった。
直通で日本にかけられますと言う話だったので家内の母と娘に電話をかけ旅の無事を伝えた。
船の中より電話料金は安かった。そして、部屋は二人にはもったいないほどの広さだった。久々
にバスタブの中で旅の汗を流した。
また、部屋にはサービスの果物が置いてあった。ご自由にどうぞということだろうと思いバナナ
を食べてみた。外観は青かったけれど、とても甘いバナナだった。
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ホーチミン市内(旧サイゴン市内)のホテルコンチネンタルに宿泊した。室内は立派な調度品で統一されており大きく豪華な部屋だった。
10月31日(日)
翌朝は一緒だったMさんやKさんと早朝の市内を散策した。たいへん緑が多く良く手入れされ
た美しい町だった。早朝からベトナム人の足であるバイクがたくさん走っていた。信号機など
まったく気にしていないようであった。
朝食はビュッフェ形式だった。日本には輸出されていないというドラゴンフルーツがデザートの
果物の中にあった。皮を剥く前は派手な色と形をした果物だった。しかし、果肉はマシュマロに
点々とゴマを散らしたような感じであった。甘みはほんのりと意外にあっさりとした果物だった。
その他、ザボンやスイカなど日本でもなじみのある果物もあった。
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朝早くホテル周辺を散策した。
かつては南ベトナムの首都であっただけに立派な建物がたくさんあり、また、大きな道路の中央は公園のようになっていた。(写真左)
ホテルコンチネンタルの玄関で(写真右)
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朝食時に出たフルーツ類、今まで口にしたこともないようなフルーツもあった。(写真左)
盛り籠いっぱいのフルーツは、この日誕生を迎えた人へのホテルからのプレゼントだった。(写真右)
ホテルコンチネンタルの横にあったマンション。各部屋のベランダには所狭しと色んな植物が植えられていた。
最初にホーチミン市内をざっと見て回り、その後、戦争証跡博物館へ行った。ここはベトナム
戦争を検証するために建てられた建物であった。拷問の写真やそれを再現した設備など、実に
生々しいパネルや展示物が置いてあった。
展示物の中には胎児のホルマリン漬けがあった。アメリカ軍が使った枯れ葉剤による奇形児
だった。枯れ葉剤の被害は今もなお消えることのない傷跡としてこの国の至るところに残って
いるようだ。ベトナム国内には300万人(全人口の約4パーセント)という膨大な数の被害者が
いるとの事であった。そして、単に奇形にだけでなく癌の発生率が非常に高く、実に深刻な社会
問題となっているようだ。
枯れ葉剤は密度の差はあってもベトナム全土に撒かれており、その被害面積は相当なもの
であった。また、あまり知られていないことだが、枯れ葉剤を撒いたアメリカ兵自体にも深刻な
後遺症となって残っているようだ。広島や長崎の放射能被害と同じようにいつまでも後に残る
被害であった。
ここを出て、サイゴン陥落時の報道写真でもおなじみの旧大統領府であったや統一会堂、
サイゴン大聖堂などを見学した。
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ホーチミン市内の一角にはかつてフランス領だった時代からの美しい建物がたくさん残っている。(写真左)
その一つがサイゴン大聖堂だ(写真右)
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南ベトナム陥落時の象徴的な建物となった旧南ベトナム大統領府。(写真左)
今は南北両ベトナムの統一を記念した「統一会堂」として一般に公開されている。
そして、前には広い美しい公園があった。(写真右)
統一会堂沿いの道にもお洒落な街灯が設置されていた。
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統一会堂近くにはベトナム戦争時の戦争証跡博物館があった。ここではベトナム戦争当時に使用された武器などが展示されていた。
中でも枯れ葉剤による被害は深刻で奇形児のホルマリン漬けには思わず目を背けてしまった。
写真右は戦車の前で記念撮影をしている白人カップル(写真左)
枯れ葉剤によって完全に失われてしまったジャングル(写真右)
その後、市民の市場であるベンタイン市場でショッピングをした。ここには、おみやげのような
ものから食料品まで何でもあるといった場所であった。私達はおみやげにと思いベトナム漆で
描かれた美人画の壁掛けを買った。そして、少し離れたレストランで昼食を済ませ、二日間の
ベトナム観光を終わった。
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ベンタイン市場は大きな建物の中にあった。ベトナムの人達はみんな商売熱心だ。あちらこちらから商品を見ていくように声を掛けられた。
狭い通路の両側には食料品からお土産に至るまで色んな商品が山積みされていた。
写真左は乾物屋であろうか。写真右は果物を売っている店だった。
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肉屋さんの店先には大きな肉のかたまりがぶら下がっていた。(写真左)
生ジュースなどを売っている店にはジュースの材料であるサトウキビが積んであった。(写真右)
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市場の入り口近くにあった衣料品店、色鮮やかなアオザイが展示されていた。(写真左)
ベトナムは漆器でも有名だ。私達はお土産に漆器の装飾品を買った。(写真右)
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市場の外ではおばさん達が小さな露店で果物などを売っていた。(写真左)
いつの時代も信頼できるのは金である。色んな金細工を売っている店があった。(写真右)
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ベトナムで最後の食事となった。昼食を食べたこのレストランでは椰子の実の中にご飯を詰めて炊いていた。(写真左)
商売繁盛を願っての祭壇であろうか。店の片隅にはこんなものが置かれていた。(写真右)
ホーチミンに向かうときにも立ち寄ったショッピングセンター。帰りもここでトイレ休憩をした。
この頃からにわかに空は暗くなり激しい雨になった。粒の一つ一つが見えるような大粒の雨だった。
港へ着くと交流会に参加した若者達を見送る人達がたくさん来ていた。中には獅子舞もいた。
蛇踊りもいた。帰船リミットは夕方の4時、出港は5時だった。定刻通り船は大勢の人に見送ら
れながら岸壁を離れた。夕闇が迫る岸壁で紙テープが風に舞っていた。
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いつに変わらぬ別れのシーンだった。薄暗くなったメコンの河口を船はゆっくりと進んでいた。
船の両サイドには広大なマングローブ林が広がっていた。この広大なマングローブ林が一時は
消えてしまった事があった。それがいまは人々の手によって見事に蘇っていた。いつも繰り返え
される破壊と再生、愚かなる行為と偉大なる努力、この相反する人間の一面を垣間見るような
気がしていた。
私達の二日間の旅では開放経済の中でたくましく生きている人々の姿を見ることが出来た。
一方、ガイドさんが話していたように経済格差が広がっているようでもあった。自分の立場を
利用してうまく立ち回るものとそうでないもの。どこの社会にもあるような矛盾が生じているよう
であった。
それでも長い戦争から立ち直り、大きく変貌を遂げつつあるベトナムの姿があった。この国の
人々はよく働き、生きる姿は実に生き生きとしていた。それは太平洋戦争後の日本人が歩んで
きた姿とダブルものがあった。
2005年3月8日掲載
2005年8月29日写真掲載
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