我が青春の古き町並み

私の社会人生活は、この町から始まりました。昭和38年3月、この年の冬は例年になく厳しい冬でした。
南国と言われるこの町にも数日前には雪が降ったとかで、駅前の道路には大きな水たまりが幾つも出来て
いました。この町とは熊本県の宇土市の事です。
そして今回、実に十数年ぶりに、宇土駅へ降り立ちました。12月だというのにコートさえ着ていない人が
大勢いるような温かい冬でした。私の心は、宇土駅が近くなるに連れて妙にそわそわしていました。この町は
私の青春時代のすべてが凝縮している町だったからです。高校を卒業し、初めて社会人としての第一歩が
始まった町でした。たった一年と数ヶ月という短い間でしたが、それだけに多くの思い出がつまった町でも
あったのです。
しかし今回、降り立った駅前周辺は、すっかり様変わりしていました。何となく埃っぽく、うらぶれた印象は
昔のままでしたが、駅前には、どんと大きな道路が出来、鹿児島本線と並行に九州新幹線の高架工事が
始まっていました。
今回、久々に、この地を訪れたのは会社の出張でした。労組の執行委員をしていたときには、数年に一回
という頻度で労組の大会等がありました。そんな関係で宇土を離れてからも何度かは来ていましたが、役員を
辞めてからは一度も来たことがありませんでした。もう二度と訪れることのない町だと思っていました。それが
今回、思いがけず会社の業務で出張となったのです。RC内部監査のためでした。
瀬戸大橋線のマリンライナー、山陽新幹線のレールスター、博多からは特急有明、そして熊本からは普通
電車と乗り継いで宇土駅に降り立ちました。私が就職をした昭和38年当時、まだ山陽新幹線も走っておらず
急行を乗り継いで熊本を目指しました。博多からは、ディーゼル急行「熊川号」だった事を思い出します。
そんな在りし日の事を思い出しながら、車窓に展開する景色を眺めていました。
話は少し横道に逸れますが、JR九州管内に入ると車両はがらりと変化します。すべての車両が新しいの
です。そしてデザインも素晴らしいのです。この前、長崎に行った時もそうでした。「白い鴎」という特急に乗った
のですが、白い車体と車内のデザインが素晴らしかった事を思い出します。今回、博多から乗った特急「有明」
も新しいデザインによるものでした。
それにひきかえ、JR西日本の車両は、古い車両が多いようです。JR九州は新しくきれいな車両ばかりのよう
です。同じJRとは言いながら経営の方針が異なるのでしょうか。JR西日本は車両よりは駅舎の改造に力を
入れているように感じます。JR九州は、駅舎の改造は、そこそこにしても、車両の更新に力を入れている
ように思えます。熊本駅からの普通電車も窓の大きな新しい電車が走っていました。また、ワンマンカーも
あるようでした。会社の方針なのでしょうか、人件費や駅舎への投資を押さえても、車両更新へ力を注いで
いるように感じられました。
時間も随分短縮されていました。児島駅を12時53分に出発し、宇土駅に着いたのは17時36分でした。
従って、5時間弱で宇土駅に着いた事になります。
話を元に戻します。宇土駅には水島工場にいたことのあるT君が迎えに来てくれました。T君とK君が計画して
夕食会を準備してくれました。K君も水島工場にいました。友達というものは本当にありがたいものです。何年も
会っていない二人でしたが、こうして旧友のために席を設けてくれ本当にうれしく思いました。今晩の宿泊先で
あるホテルベンデナート(昔は一心という旅館だった)に荷物を置いて、T君の車で松橋まで行きました。
昔は周辺を田んぼに囲まれた寂しい田舎町でしたが、すっかり様変わりしていました。道縁には新しく出来た
飲食店等が軒を連ねていました。私達は「十徳」という魚料理の店に入りました。新しく建てられた店のようで
した。店の前ではK君とSさんが待っていてくれました。T君は私にヤリイカのおいしいのを食べさせようと思い、
この店を選んでくれたようでした。しかし生憎、この日は入荷していませんでした。その代わり久しぶりに馬刺と、
これまた珍しい馬の生レバーを食べさせて貰いました。アジの刺身も新鮮でした。その他、キビナゴの天ぷら等、
次々と色んな料理が出てきました。仕上げに出てきた焼きおにぎりとアサリのみそ汁が、又、実にうまかった。
ここを出て、元日本合成の社員だったという人の代行運転で宇土市へ戻りました。そしてホテルのすぐ近くの
スナックで二次会が始まりました。しばらくしてカウンターに別のグループ三人が入ってきました。中の一人は
三菱重工の社員だったという人でした。今は会社を辞めて事業を始めたと話していました。我々と同世代の
人のようでした。この人達と意気投合してしまいスナックの中は大変盛り上がりました。こうして何曲歌った
でしょうか、12時近くになってお開きにしました。
翌朝、不思議に酔いは残っていませんでした。4時半頃、目が覚めてしまいましたが再び寝ていました。次に
目が覚めたのは7時少し前でした。シャワーを浴び、ひげを剃り、歯を磨いて一階に降りました。食事をしている
人は誰もいませんでした。朝食を済ませ、ホテルのおかみさんに工場までの道を聞きました。工場へは船場川
沿いに行けば良いという事でした。
いったん部屋に戻り、宇土に住んでいる先輩のI氏に電話をしてみました。今回の目的の一つは、I氏やY氏に
お会いする事でした。私の残り少ない定年日までに、会えるのは今回限りだと思っていたからです。電話で矢吹
ですと言っても、なかなか分かって貰えませんでした。予期しない電話だったからだと思います。夕方には地元
OB会の忘年会があるとかで、昼間、会社の方へ訪ねてくれるとの事でした。もう一人、熊本でも水島でも上司と
してお世話になったY氏に電話をしてみました。Y氏は昨年、水島にも来られ食事を一緒にしたこともあって、
挨拶だけはしておきたいと思っていたからです。
午前中の会議は予定時間を少しオーバーして12時過ぎに終わりました。そんな訳で、せっかくお会いしたI氏
とは、ほんのわずかしか話す時間はありませんでした。お会いしただけでは、さほどひどいようには思えません
でしたが、一時、体をこわされて動けなかったと話しておられました。今は少しずつ良くなっていると言っておられ
ました。一日も早く元気になって貰いたいと念じつつお別れをしました。ほんのわずかな時間でしたが、会えて
良かったと思っています。この人との思い出はたくさんあって、私にとっては兄貴のような存在の人でした。
朝からのRC内部監査はすべて終了しました。私も監査員としての任務を果たすことが出来、ほっとしました。
こちらへ来る前には、もう一泊するつもりで来たのですが、I氏にも会い、その必要性がなくなりました。外は
本格的に雨が降り始めていました。今からなら岡山まで帰れると聞いて、このまま帰ることにしました。大阪へ
帰る人達のタクシーに同乗させて貰い、宇土駅に行きました。
そして、熊本発19時の特急ツバメに乗って一路、岡山を目指しました。博多からはレールスターひかり386号
20時35分発に乗り換えました。そして、22時48分岡山発の普通電車で上の町まで帰りました。
神様が準備してくれたような今回の出張でした。懐かしい友達や先輩にも会って思い出に残る旅となりました。
今度訪れる時は退職後になるでしょうが、家内も連れて来ようと思っています。その時には、古い宇土市内の
観光もしてみようかと思っています。我が青春の町、宇土市よ又会う日まで、さようなら。
追記
宇土市は、古くは小西行長が開いた城下町でした。その後、宇土細川藩が陣屋を置いたようです。従って、
歴史と伝統のある町です。日本合成熊本工場に就職した頃、宇土の歴史には、まったく関心がなかったので、
ただ何となく古ぼけた町だなあといった程度の印象しかありませんでした。
しかし、改めて町を見回してみると、古い大きなお寺など、城下町らしい遺構が町のあちこちに点在をして
いました。船場川も船場川に架かる石の橋も、そんな遺構の一つでした。
昭和38年当時、宇土と言えば代表的な会社は日本合成で企業城下町でした。地元の人は宇土合成と言って
いました。工場で働いている人は関係会社や協力会社を含めると優に千人を越えていたのではないでしょうか。
従業員の多くは地元の人達でした。親子兄弟が合成に勤めている人も少なくありませんでした。地元の人に
とって日本合成に就職することは、あこがれだったに違いありません。そんな時代だったのです。熊本市内で
さえも、飲み屋のつけがきくくらい、企業の影響力は大きかったのです。
しかし、私が入社した昭和38年は、会社にとって大きな転換期でした。それまでコークスや石灰石を原料
としたアセチレンガスから、原油を精製して作るエチレンガスへと原料源が大きく転換したからです。熊本
工場の周辺には、今でもカーバイドの残滓がうず高く積まれています。
私が入社してからも数年間は巨大な電気炉でカーバイドを作っていました。その後、水島にエチレンガスを
原料とする酢酸工場が出来、電気炉は長い歴史の幕を下ろしました。その後は従業員も転勤や希望退職で
削減され今日に至っています。従業員の数も二百人を切るような規模になってしまいました。
工場の中も大きく変化していました。正門付近の庭木や神社こそ昔のままでしたが、使い古された設備は
この工場の長い歴史を感じさせるものばかりでした。事務所等も建て替えられることなく、そのまま使われて
いました。水島工場同様、この工場の置かれている環境の厳しさを感じさせました。あれから半世紀近くの時間
が過ぎ去ったことになります。ふと往時の工場の賑わいが蘇って来るのは私だけの感傷でしょうか。
2003年12月25日掲載
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