第四十七回ピースボート
地球一周船の旅(4)

大西洋を横断して

 ナミビアを離れると、そこは大西洋だった。太平洋に次ぐ広大な海だ。この海をほぼまっすぐ

に進むと南米のリオデジャネイロに着く。海に定められたコースはない。広い海をただまっすぐに

最短コースで進むだけだ。

 海の色はいつしかインド洋で見たあの美しいブルーに戻っていた。夜になると南十字座が見え、

銀河(天の川)が天空を横切っていた。マゼラン星雲でさえも肉眼で見えるのではないかと思う

ほど空は美しく澄んでいた。

 夕方、船の右舷に見えていた星座も夜明け前には左舷に移動する。夜明け前の水平線より

やや高いところに偽十字、そして、その下に南十字座が左に傾いて輝いていた。こんなに美しい

星空を眺めたのは何年ぶりだろうか。遠い昔、ふる里の大川の土手に寝転んで見上げた時

以来の事ではないだろうか。空が澄んでいることと、周辺に人工の明かりがない星空とは、

こんなに美しいものか。私達現代人は明かりを手に入れた代わりに美しい星空を失ってしまった

ようだ。

南米に一歩を印す

 リオデジャネイロは南米最大の港町だった。古くから開けたこの町はブラジルの首都だった

時代もあった。大きな港には倉庫と思われるこの港の歴史を感じさせるような古い建物が

たくさん並んでいた。建物の向こうに見える山の上には、この町のシンボルであるキリスト像が

小さく見えていた。

 ここで思わぬハプニングが起きた。船は岸壁に舳先を向けたまま突っ込んで行ったのだ。

あわや岸壁に直撃かと思われたとき、入港時には使うことがない碇が降ろされた。やっと船の

スピードが落ち、大きく舵を右にきって岸壁に衝突することなく横付けになった。肝を冷やした

一瞬だった。船長が前の港で交代し、新しい船長に交替したばかりの出来事だった。

 リオデジャネイロを出ると船は再び南下した。向かうところはアルゼンチンの首都ブエノス

アイレスだった。ここも古い港町だ。船はどこまでが海でどこからが川か分からないままに

ラプラタ川を遡っていた。

 ラプラタ川は実に巨大な川であった。船は両サイドにブイを浮かべた大きな川の真ん中を

流れに逆らうように航行していた。右舷にも左舷にも岸はまったく見えなかった。まるで海の

ような川だった。水の色は時に応じて様々に変化した。ある時は赤茶けた水であり、ある時は

緑がかった水と同じ川なのに何故このように変化するのだろうか。

 私達夫婦は気温が高くなったのを見計らって後方デッキにあるジャグジーに入っていた。

後方に流れていく雲、広いラプラタ川、静かに流れていく風、文句なしのリゾート気分だった。

 船は夕方になってブエノスアイレスの港に着岸した。港からは町明かりが見えていた。港には

夥しい数のコンテナが積み上げられていた。港の中も茶色の水だった。このように川を遡った

ところにある港は珍しかった。航行してきた川はここからも更に奥まで続いていた。

 ブエノスアイレスでは夜中を過ぎても出港出来なかった。船の燃料の補給が遅れたからだ。

それにしても、こんなに浅い港の中から無事出港できるのだろうか。隣の貨物船の船底が

見えるような浅い港だった。それでもどうやら船は明け方近くに出港したようだ。翌朝デッキに

出てみると、もう一隻停泊していた大型客船の後を追うようにラプラタ川を下っていた。

南米大陸最南端に達す

 再び、大西洋に出た船は舳先を更に南に向け南米大陸最南端にあるフエゴ島に向かって

いた。この島は有名なマゼラン海峡によって大陸と隔てられていた。この島はアルゼンチンと

チリが国境を接している島でもあった。私達はアルゼンチン側にあるウスアイアを目指して

いた。この海域も荒れることで有名だったが、私達の航海中は実に穏やかであった。

 船は早朝、ウスアイア沖合に着いた。港が徐々に近づくに連れ夜が明けてきた。明るくなり

始めた光りの中に世界でも有数の美しい港だと言われているウスアイアの全景が見え始めた。

町の背後には切り立った岩山が幾つも聳えていた。まるでアルプスの山々を見ているような

景色だった。山々は山腹当たりまで白い雪に覆われていた。

 また、港の中は実に穏やかで鏡のようであった。鏡のような海面に町のカラフルな建物が

映っていた。絵はがきのようなとは、こんな景色のことを言うのではないだろうか。一昨日まで

降り続いていた雨が夜遅く雪に変わったようだ。季節はずれの雪だった。私達の到着を雪化粧

して待っていてくれたに違いなかった。

 この雪も出港時の夜遅くにはほとんど解けていた。ウスアイアの夜は二十二時近くまで明るい。

町の中は大勢の人で夜遅くまで賑わっていた。白夜に近い町の中に居ると、ついつい帰船時間

を忘れてしまいそうだった。ようやく薄暗くなり始めたウスアイアを後にしたのは夜遅くなって

からだった。

パタゴニアフィヨルド大航海

 いよいよ、このクルーズの最大イベントであるフィヨルドの航海と大氷河の見学だった。船は

複雑な航路をきわめてゆっくりと進んだ。一つ間違うと座礁という海難事故が待っていた。この

海域専属のパイロットが乗り込み航海の指示をしていた。今も船体の一部を残して船が沈んで

いた。

 これら複雑な水路はその昔、大きな氷河によって大地が削られて出来たものだ。今は氷河も

小さくなり更に温暖化で大きく後退していた。地球温暖化の影響はここでも確実に進んでいる

ようだ。

 氷河近くには崩落した氷がたくさん漂流し、簡単に近づくことが出来なかった。私達は双眼鏡

でしか、その迫力を感じることが出来なかった。気象変化の激しいこの海域は急に暗くなり時雨

始めた。

 恐ろしく時間を要するこの航海は予定時間を大幅に越え、結局、最後に予定していた氷河は

見ることが出来なかった。船は狭い水路を後にして太平洋に出た。空は明るかったが、強い

向かい風が容赦なく体温を奪っていく。とてもデッキの上にじっとしておられないような寒さ

だった。そして、何かに掴まっていなければ吹き飛ばされそうな強い風だった。

船は大陸に沿って北上

 船は南北に細長い国チリの陸地沿いに航行し、チリのバルパライソ港に着いた。この国の

首都であるサンチャゴに近い港町だった。船が港に近づいたとき、町はまだ暗闇の中にあった。

ネオンサインがまったくない町はオレンジ色の照明で統一されていた。ここは町全体が世界

遺産に指定されているという美しい町だった。

 夜が明け始めると、カモメだろうか。夥しい鳥の群が船の舳先を横切っていく。そして、着岸

寸前になると船が巻き上げる渦の中にカモメが舞い降り始めた。どうやら魚を狙っているようだ。

カモメに混じって大型の鳥がいた。ペリカンだった。かなりの数がいたようだ。こうして船は雑然

とした港の岸壁に着岸した。

 トパーズ号の横にはチリ海軍の船が泊まっていた。遥か沖の方からは、もう一艘の大型客船

がこの港に向かっていた。実に活気のある港の風景だった。恐らくチリにとっては重要な港なの

ではないだろうか。

 港の後ろは小高い丘になっていた。この丘にたくさんの家が建ち並んでいた。何かしら尾道

の町を思わせるような船からの眺めだった。この港の陸続きには、この国最大のリゾート地も

あるような風光明媚な土地だった。日本で言えば伊豆の熱海といったところだろうか。

神秘の島イースター島

 チリのバルパライソ港を後にすると数日間の海の旅となった。同じチリでありながら向かう

イースター島は遥か太平洋上にあった。イースター島の沖合には早朝に着いた。お天気の

変化が激しいと聞いていた。上陸できるかどうか気がかりであった。また風の吹く方向によって

は停泊場所を変えなくてはならないらしい。と言うのもこの島には大型船が着岸するような港

がなかったからだ。

 従って、船は島の沖合に停泊し、そこからはテンダーボートという八人乗り位の小さな船で

上陸しなくてはならなかった。通常、この島への行き来は海岸近くにある空港を利用するように

なっていた。空港は我々の船が停泊した島の右手にあった。かなり大きな飛行機が離発着して

いるようだ。

 イースター島は島全体が観光地だった。島が近くになるとトパーズ号からも港周辺に立って

いるモアイ像が幾つか見えていた。また、空港のある右手方向には小高い岬があった。この

岬には大きな波が激しく打ち寄せていた。この島は太平洋のまっただ中にある小さな島だった。

海岸に打ち寄せている波は船から見ていると、どれくらいの波なのか見当が付かなかった。

 この波(うねり)があるためにトパーズ号からテンダーボートへ乗り移る時、細心の注意が

必要だった。少しでもタイミングがずれるとテンダーボートとトパーズ号の高低差が出来てしまい

事故になりかねないのだ。私は徳之島への上陸の事を思い出していた。確かあの時も大きな

連絡船から上陸用の小さな船に跳び乗った事があったからだ。そんなわけで第一日目の午後

からは波が大きくなり上陸中止になってしまった。

 イースター島を囲む海の色は非常にきれいだった。今まで航海してきた海よりも更に青を

濃くしたような色だった。じっと見ていると海の底へ引きずり込まれそうな気がしてくる神秘的な

色だった。この島の持つ秘密めいた雰囲気の故だろうか。そして、その神秘性をさらに高めて

いるのは空の青さだった。同じような青色でありながら海の蒼と空の碧、この微妙な違いは

なんだろう。

 この蒼と碧の中間に、ぽつんと置き忘れたように存在するのがイースター島だ。モアイ像が

なくても十分に神秘的な島だった。そして、その神秘さを助長しているもう一つの理由は島が

裸同然の姿だからでもある。岩があちこちで露出したごつごつした島は絶海の孤島と言うに

ふさわしい寒々とした姿だった。

南国の楽園タヒチ

 イースター島に比べると、この島は何と明るくて緑豊かなのだろう。タヒチ島である。ただ開発

の進んだ島にはゴーギャンが描いたような素朴さや自然はあまり見られなかった。港の周辺

には近代的な建物が建ち並ぶ街でリゾートアイランドだった。沿岸の椰子の木が風になびき、

この国の旗だろうか。色鮮やかな旗が風にはためいていた。どこまでも明るい海と空。この景色

を見ただけで心うきうきしてくるような感じだった。

 デッキで朝食を食べながら近づくタヒチ島を眺めていた。じっとしていても汗がにじみ出てくる

ような暑さだった。真上からじりじりと焼け付くような太陽が照りつけてくる。タヒチ島の向かい

には、これから行く予定のモーレア島が黒いシルエットになって海に浮かんでいた。「海の古城

」とゴーギャンが名付けたように異様にとがった山々は中世のヨーロッパの城に似ていた。

オセアニアの国々

 タヒチを離れるといよいよニュージーランドだ。入港したニュージーランドのオークランドは

かつてニュージーランドの首都だったこともあって超近代的な町だった。遠くからでも町の中心

に聳える高い塔や建物が見える。また、港が近くなるに連れ夥しいヨットが見え始めた。人口

に占めるヨットの保有率は世界一だと言われている国だ。

 それにしても穏やかで美しい港だった。私達の船は港にある大きなホテルのすぐ横に着岸した。

船のデッキに立っているとホテルの五、六階と同じ高さだった。ホテルのベランダからは宿泊客

がこちらを見ていた。大きな客船が入ってくるのが珍しかったのだろうか。

 夏だとは言え爽やかで気温は低かった。聞けば昨日まで早春のような気温だったという。湾内

ではフェリーボートやタグボート等が忙しそうに行き来して活気のある港だった。バスから眺める

町の景色は人口が少ないからだろうか、家は木々に囲まれた余裕のある建て方だった。

 私達は、このニュージーランドではオーバーラウンドツアー(オークランドでは船まで戻ること

なく次の寄港地であるシドニーで合流)だったので飛行機に乗ってオーストラリアに入った。

従って、オーストラリアでの入港シーンを見ることが出来なかった。その代わり小雨に煙る出港

シーンをこの目にしっかりと見納めた。

 ご存じのようにシドニーの港にはオーストラリアを代表する建物がある。シェルをイメージした

というオペラ・ハウスだ。独特の形をしているオペラ・ハウスは、どの方向から見ても絵になる。

しかし、何と言っても船から見る眺めが一番ではないだろうか。

 私達は霧のような小雨に煙ったシドニー港を後にした。岸壁を離れ、オペラ・ハウスを右手に

見ながらハーバーブリッジをくぐった。船はここで大きな汽笛を鳴らしこの国に別れを告げた。

何ともロマンチックな出港だった。いつもの事ながら大勢の人がデッキに並んで遠ざかる景色

を眺めていた。

 名残惜しさの残るシドニーの町をバックに若者達と一緒に何枚もの写真を写した。しばらくして

急速に雨足が強くなってきた。どうやら今夜は本格的な雨になりそうだった。

激戦の地だったパプアニューギニア

 オーストラリアを後にすると、いよいよ最後の寄港地パプアニューギニアのラバウル港だった。

かつては日本軍の基地があった町だった。日本兵達が「伊勢の夫婦岩」に似ていると言って、

ふる里を偲んだという小さな二つの島を左手に見ながら湾内に入っていった。

 ここも天然の良港らしく大きく入り込んだ湾内は非常に波穏やかだった。近づく山々はさすがに

熱帯のものだけに鬱蒼とした木々に覆われ、まことに緑豊かな国であった。近くには噴煙を

上げ、なお活発に活動を続けている火山があった。この山が噴火したためにラバウルの町は

完全に灰に埋まってしまったのだ。町はすべて火山灰に埋もれ、港だけが残された。そんな

わけで、他の寄港地に見られたような立派な建物もなく、人の賑わいもなかった。

 彼等はどこから来たのだろう。民族衣装を身につけた現地の人達が岸壁で歓迎の踊りをして

いた。その内に港の入り口付近には売店が出来、歓迎の人達が大勢集まってきた。湾内では

アウトリガー付きの小舟に乗って子供達が珍しいものでも見るように近づいてきた。大きな

黒い瞳の人なつこそうな笑顔だった。こんなのんびりとした穏やかなところが激戦地だったとは、

とても思えなかった。

 こうして最後の寄港地ラバウルを出港し神戸に向かった。神戸港は寒波のまっただ中にあった。

しかし、帰国の感激に浸ってはいられないほど船内は慌ただしかった。九百人近くの乗客の

約半数近くの人はここで下船だった。親しくなった友人達との挨拶もそこそこに船を降りた。

 迎えに来てくれた娘夫婦に荷物を託してターミナルのベランダへ出てみた。見覚えのある顔

が幾つも手を振っていた。声はかき消されて聞こえなかったが、私を呼んでいるのが何となく

分かった。再び目頭に涙がこみ上げてきた。こうして百二日間の長い旅は終わった。

スタッフの皆さんに感謝

 私達の船旅は様々な土地で様々な人達の歓迎を受け、珍しい自然を目にしながら入出港を

繰り返した。いきなり上空から舞い降りる飛行機の旅と違って、船はゆっくりとその国の玄関の

戸を叩くように入港した。ある時は税関やタグボートが来るのを港の入り口で待つこともあった。

実にのんびりとした旅であった。

 これらの旅を演出してくれたのは先乗りというピースボートスタッフやジャパングレースの社員

達だった。彼等は世界を股に掛けて飛び回り、受け入れ先の準備に当たっている。今回のコース

の寄港地に紛争地はなかったが、過去には鉄砲の弾が飛び交う中で現地の下見をしたことも

あったという話だった。私達が楽しい旅を続けられたのは彼等の献身的な努力があったと言う

ことを付け加え旅の記録を終えたい。

こんな偶然があるのだろうか

 さて、話は振り出しに戻る。この旅は私の定年を待つかのように準備されていたと書いたように

記憶している。前もって準備してきたわけでもなく、気が付いたら船に乗っていたと言うような

感じだった。ところが、それだけではなかったのだ。この船には、とても偶然とは思えないような

事が幾つもあったからだ。

 その一つが、人との出会いだった。Kさんは単身で、この船に乗っていた女性だった。外見

とは異なり大変気さくな人だった。彼女のご主人が何回か前のクルーズに参加したことがあり、

今度はお前行って来いと送り出されたのだとの事だった。そのKさんもご主人も岐阜県の大垣

市出身だった。私が勤めていた日本合成の大垣事業所はKさんの実家のすぐ近くにあるとの

事だった。「はい、日本合成のことは良く知っていますよ」との事だった。しかも、ご主人が勤めて

いたN板ガラスと言う会社は、日本合成労組が加盟していた合化労連という上部団体に加盟

していた。

 同じく大垣出身のY君がいた。私の息子くらい年の離れた若い人だった。彼は測定器関係の

会社にいた頃、大垣事業所には良く出入りしていましたとの事だった。彼はこの船での最後の

取り組みだった「しゃべれ場聞け場」の数少ない仲間だった。私とともに司会で苦労した一人

でもあった。

 ともかく、船で出会った人の多くが一度も顔を合わせた事もない人ばかりなのに、何故か、

そうは思えなかった。ずっと昔から何か不思議な縁で結ばれていたような気がしてならなかった。

 また、新聞局で活躍していたI嬢は東大の大学院卒業の才媛だったが、既にM新聞社に就職

が決まっていた。なかなかの文才だった。船上新聞の「しなちく」というインタビューコーナーで、

私を取材して記事を書いてくれたのがI嬢だった。彼女の初の就職先が何と熊本支局だった。

熊本は私自身が社会人として初めて第一歩を印した土地だった。これも単なる偶然なのだろうか。

終わりに

 かくして私達夫婦の百二日間に及ぶ長い船旅は終わった。今でも何かしら夢の中の出来事

だったのではないだろうかと思うような事もある。浦島太郎は助けた亀に連れられて竜宮城に

行き、そこでタイやヒラメの舞い踊りを見ながら楽しい日々を過ごしたと言うけれど、私達の旅行

も同じような事だった。船上では毎日がお祭りであり様々なイベントの連続だった。一日として

何もない日はないくらい朝から晩までスケジュール一杯の中で過ごしてきた。最初の一ヶ月こそ

不安もあり慣れぬ船内生活だったが後の二ヶ月はアットいう間に過ぎてしまった。気が付いて

みれば神戸港に降り立っていた。まさに竜宮城から一挙に現実に引き戻された感じだった。

 もう一度行くかと聞かれれば複雑である。百二日に及ぶ日々の感動を今回と同じように味わう

ことが出来るのだろうかという不安があるからだ。旅は色んな巡り合わせが大事だと思う。

それだけに再び同じような巡り合わせを体験できるだろうかと思うからである。それでもなお

新しい国への訪問、そして新たなる出会いを求めて、もう一度と言う日が来るかも知れない。

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