母の里 その1
母の里は山と山とが鼻突き合わすような細い谷間の集落であった。向かいの山裾を縫うように宮川という清流が
流れていた。この流れは大台ヶ原に端を発していた。かつて三瀬谷と言われていたこの町は後に大台町と町名が
変わる。杉や檜といった材木の街であった。三瀬谷駅の裏には大きな貯木場があった。ホームに降り立つと、この
木の香りが駅周辺を満たしていた。
私がまだ小学校の一、二年生だった頃、母と私と小さな弟の三人は夏休みになると里帰りをしていた。当時はむろん
新幹線などという高速鉄道はなく、特急や急行にさえ乗ることが出来なかった。従って、朝、昼の弁当を作り、早朝の
4時頃(当時は一番と言っていた)の列車に乗って、まずは福山まで行き、福山から何度も何度も乗り換えをしながら
三瀬谷を目指したのであった。従って、全てが鈍行と言われた普通列車の乗り継の旅であった。しかも現在のように
私鉄などなかった時代である。全てが国鉄と言っていた在来線が頼りであった。
日の暮れるのが遅い真夏とはいえ、母の里に着く頃には太陽は西に傾き夕暮れが迫っていた。母は弟を背に両手
にかかえきれないほどの荷物を持っていた。長期の滞在を考えての荷物であった。僕は母に遅れまいとして一生懸命
小走りに歩いていた。駅から母の実家まではかなり遠かった。昔で言う一里(4キロ)はあったのではないだろうか。
もっと遠かったような気もするのだが定かではない。
町を少し離れるともう田舎道となって檜や杉が鬱そうと茂る山際の道にさしかかる。そこには滝見橋という橋が
架かっていた。川底までは目もくらむような高さであった。その川底を急流が白い泡をたてて流れていた。母が子供
の頃にはこの橋はなく渡し船であったそうだ。
その橋を行き過ぎる頃から周辺は急に薄暗くなり始めていた。山際の道を歩いていると前や後ろの林から降る
ようにヒグラシの声が追いかけて来る。そしてひとしきり鳴くと今度は潮が引くように遠くなっていく。この繰り返しが
限りなく続くのであった。薄暗い山道を親子三人とぼとぼと歩いていた。今でも何とはなくもの悲しく寂しい気持で
あったことを思い出す。
夏のこととはいえ、とっぷりと日が落ちてしまうと空気は急速にひんやりとし始める。母の声に励まされながら歩を
早める。母の実家が近くなるに連れ、子供心にも期待と不安が入り交じった複雑な気持になったことが、つい昨日
の事のように思い出される。
母の実家は集落の一番奥にあった。家のすぐ後ろは山であった。家の周りにはずっと茶畑が続いていた。お茶は
細い道の際まで迫っていた。遠目にはとても道があるようには見えなかった。茶畑と茶畑を縫うようにして細い坂道を
たどっていくとそこは大きな農家の入り口であった。屋敷の中心に大きな松の木が立っており、家の周辺は高い
マキノ木の生け垣で囲まれていた。
玄関で声をかけると待ちかねていたようにおばさんが出迎えてくれ大勢のいとこ達が出てきた。僕は面はゆい思い
で黙って玄関に立っていた。母にせかされるようにして挨拶をした。小さな声であった。おばさんは気さくな人で僕たちを
快く歓迎してくれた。「挨拶は良いから早く上がりなさい」とか何とか言ってくれたように思う。
大勢のいとこの中に僕と同級生の男の子がいた。子供同士というのはすぐに仲良くなるものらしい。玄関に上がるや
いなや台所に案内されおじさんに挨拶をした。そして母と一緒に奥の部屋に行きおじいさんとおばあさんに会った。物心
つかぬころ何度かは会ってはいると思うのであるが全く記憶はなかった。従って僕にとっては初対面のようなもので
あった。おばあさんは優しそうな人であった。しかし、おじいさんは上品で威厳のある一見近づきがたい人のように
思えた。母はすっかりくつろいでこの家の娘に戻っていた。おばあさんとの話を聞いていて何となくそれが分かった。
母もまだ若かった頃のことである。それから約一ヶ月間、夢のような楽しい夏休みの始まりであった。
2002年4月9日掲載
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