遙かなる友

私には三十年以上になるペン友達がいます。台湾の人です。手紙を交換するようになったきっかけは高校時代の親友
の紹介でした。その親友は中学校時代の同窓生で高校も同じ高校に進学し、共に三年間一緒に過ごした間柄でした。
友達は高校を卒業すると遠く日立製作所に就職しました。その友達から突然手紙が来ました。卒業して一年か二年が
過ぎた頃でした。その手紙には計算尺の検定で知り合った台湾の人とペンパルにならないかというものでした。その頃は
今のように計算機というものはありませんでしたから電気の計算なども計算尺でしていました。計算尺にも算盤と同じように
計算の速さと正確さを競う検定がありました。その検定試験の結果は雑誌に紹介され、その一部は台湾にも紹介されて
いたようです。もちろん日本語で書かれた雑誌ですから日本語が理解できる、しかも計算尺を用いるような職業に就いて
いる人にしか読まれないようなものであったと思います。日立製作所に行ったK君には恐らく全国から何人かペン友達に
なりたいという申し出があったのではないでしょうか。従って、彼一人ではどうにもならず、私にも紹介してきたのではない
かと思います。
以来、台湾の友達は生涯をかけてのペン友達となったのです。Kさんと言います。趣味が切手蒐集と言うことも長く続いた
理由かも知れません。それこそ、私が結婚する以前から今日まで三十数年間続いているのです。Kさんは鉱山技師です。
戦前、日本総督府が台湾にあった頃、日本の作った学校で学んだ人です。従って、日本語も堪能で日本国内にも、その頃
の同窓生は多く、今でも行き来を続けておられるようです。日本語は話すことよりも書くことの方が得意のようです。
Kさんからは時々家族の写真が送られて来ます。文通を始めた頃は小さな子供さん達でしたが、今はすっかり成人され
良き父や母になっておられます。確か子供さんは三人だったように記憶しています。長男と次女は早くからアメリカやカナダ
に住んでおられ、それぞれ成功者として生活しておられるようです。その人達の子供さんもすでに大学生や高校生の方も
おられ、いずれ成人してそれぞれの道に進まれるのではないでしょうか。先日も黄さんを囲んで一族の方々の集まりが
あったようです。写真には立派になられた子供さんやお孫さん達が写っていました。
Kさん夫婦は裕福な生活をしておられます。黄さんが鉱山技師、奥さんが学校の先生でしたから、定年後も年金生活と
蓄えとで悠々自適の生活のようです。夫婦共々仕事を離れ何度も世界中を旅行しておられます。もちろん日本にも何度も
来られています。旅行の途中で岡山の国際ホテルに泊まられた時は家内と一緒に会いに行った事があります。
私達も子供達が小さかった頃、一度だけ子供達を義母に預かって貰い台湾へ旅行した事があります。向こうに着いて
ホテルからKさんの家に電話をした時、英語で応対に出られた娘さんに、こちらの意志を十分に伝えられなくて恥ずかしい
思いをしたことがありました。つくづく英語の勉強の必要性を感じました。Kさんは台湾の台北市に住んでおられます。田舎
には土地を持っていると言っておられましたが、田舎で暮らす気はないようです。今はマンションに住んでおられるようです。
台湾旅行ではKさんとKさんの奥さんに台北市内を案内して貰いました。食事も市内の見晴らしの良いところへ案内して貰い
本格的な中華料理をご馳走して貰いました。故宮博物館へも案内して貰いました。もう随分以前の事になります。Kさんも
八十歳近いのではないでしょうか。今も元気に時々旅行をしておられます。つい最近まで現役の鉱山技師として仕事をして
おられました。
今も私の手元にはKさんの三十数年間にわたる膨大な手紙があります。この手紙はKさんとの友情の証であるとともに、
二人がそれぞれの国で刻んできた歴史でもあります。黄さんは政治的な話を極力避けるようにしてこられました。私は日本
の国内での政治、経済、社会問題などを、その時々の手紙に書いてきました。台湾も日本もこの三十数年間で大きく変わり
ました。その変貌の全てを手紙から読み取る事は出来ませんが、セピア色になった手紙の裏側に何かを感じることが
出来ます。どうか黄さんと奥さんが何時までも元気でおられることを願っています。そんな思いを込めて、ついこの前も
手紙を書きました。
2002年11月11日掲載
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