子供の頃の遊び その5
自転車
一口におもちゃと言っても現代では多種多様にあり、お金さえ出せば何でも手にはいるような時代です。しかし、私達が
子供だった頃、お金もなかったけれど、お金を出してもおもちゃと言えるほどのものは何もありませんでした。そんな時代
にも関わらず何故かスケーターという奇妙な乗り物がありました。我が家にどんな経緯があってこんなものがあったのか
分かりません。ジュラルミン製のその乗り物はかなり長い間あったような気がしています。今、リバイバルなのでしょうか。
子供だけでなく若者達までが乗って遊んでいます。中にはエンジン付きなどいうものもあって、ここまで来るとおもちゃとも
言えるのかどうか。
それにしても何故唐突に、この時代になってこんなものが流行し始めたのでしょうか。近所の若者達が乗って遊んでいる
のを見て、ふと子供の頃を思い出したので書いています。
少なくともスケーターよりは高くて買って貰えなかった乗り物に三輪車があります。戦後のものの不自由な復興期に
あっても、お金させ出せば手にはいるようなものであったようです。近所の子供が乗っているのを横目で見ながら、
貸してくれると言うのを辛抱強く待っていました。しかし、貸してくれる相手も幼い子供のことです。気まぐれにすぐに
返せと言ってきます。そうなれば素直に返す他はありません。こんな悔しいうらやましい思いを何度味わった事で
しょうか。それでも飽きずに側に行っては、貸してくれると言うのを辛抱強く待っていました。
やがて三輪車がおもちゃに見え始めた頃、三輪車の子は今度は自転車に乗ってきました。まだ、転倒防止用の
補助車の付いたものでした。三輪車以上に魅力ある乗り物でした。僕は乗ってみたくて仕方がなかったので機嫌を
損なわないようにして貸して貰うことに腐心をしていました。家にはお父さんの商売道具である自転車がありました。
しかし、大人の自転車は大きすぎて、すぐには乗れませんでした。日々自転車が欲しいという思いはつのるばかり
でした。
そんな思いは同世代の者では誰もが持っていた思いだったようで、僕らの間には大人の自転車の横乗りと言う
のがはやり始めました。サドルに座ってもペタルに足が届かないので自転車の三角フレームの間に足を入れて
ペタルを漕ぐのです。自転車を少し斜めにして自分の体を反対に倒してバランスを取りながら乗るのですから、
なかなかしんどい乗り方です。遠距離は無理であっても乗って走るという爽快感は味わう事が出来ました。
こんな事をしながら子供自転車に乗れないと言う不満を癒していました。しかし、この自転車もお父さんのものです。
そう長くは遊べません。その上、練習をしているときには何度も転んで自転車に傷を付けていました。父は気付いて
いたのかどうかは分かりませんが何も言いませんでした。一度は勢い余って田圃に真っ逆様に突っ込んでしまった
事もありました。幸いにして田圃は稲刈り前の乾燥状態でしたので泥んこにはなりませんでした。
野良犬
傷ついた野良犬が震えていました。子犬でした。他の犬に噛みつかれたか、追いかけられて鉄条網か何かで
ひっかいた傷に違いありませんでした。かなり重傷でした。可愛そうで放ってはおけない様子でした。
僕らは自分の家では飼って貰えない事が分かっていましたから、みんなでこっそりと世話をしてやることにしました。
近所の倉庫の薄暗いところを選んで犬の隠れ家としました。家から薬を運び、食べ残しやご飯を持ち寄って犬の餌に
しました。こうして1ヶ月もたった頃、犬の傷も癒え、せっせと運んだ餌のお陰で子犬は見る間に大きくなっていきました。
傷も毛に覆われて目立たなくなっていました。
親たちの目を盗んで飼っていたつもりでしたが、全てばれていました。お母さん達にあの犬はどうしたんかと問い
つめられ、隠してはおけなくなってしまいました。実はかくかくしかじかと事の経緯を説明すると、さすがに親たちも
それ以上追求することもなく、一件落着となりました。それにしてもこの犬の行く末はどうなるのだろうと心配して
いました。そんな事を察してくれたのか、仲間の一人であった散髪屋さんの家に引き取って貰えることになりました。
再び野良犬として放り出すには忍びなかっただけに一安心でした。子供の頃の犬との触れあいといえば、この野良犬
との思い出がたった一つです。
蝋石山、ペチャコとヤドリギ
山に行けば遊びには事欠きませんでした。近くの山には何でもあったからです。食べ物と言えばアケビやイタドリや
ビービー(グミ)でした。おもちゃと言えば蝋石やぺちゃこやヤドリギでした。
蝋石は牛山に行く途中の山にたくさんありました。蝋石が出てくるところだけは草も木も生えず、白くむき出しのまま
でした。これが蝋石山でした。蝋石は耐火煉瓦など色んなものの材料になる石でした。柔らかい石なのでコンクリートの
上などでは白墨と同じように線を引いたり、文字を書くことも出来ました。たくさん取ってきても使い道がないものでしたが、
この近くでは珍しい石の一つでした。
ぺちゃこと言うのは何の実だったのでしょうか。さや豌豆をもっと大きくしたようなもので、二つに割ると中はねばねば
していました。これを遊び相手のほっぺた等にひっつけ合ってふざけていました。ただそれだけのものでした。それでも
アケビと同じように、どこにでもあるようなものではなかったので、生っている場所はみんな秘密でした。それぞれが自分
の覚えの場所を隠していて決して誰にも教えませんでした。僕も唯一、秘密の場所を持っていました。
しかし、そんな遊びもぺちゃこの事も急速に忘れ去られてしまいました。秘密の場所は後にゴルフ場開発の手が入り、
全くの荒れ山になってしまいました。計画半ばで工事が中止になり、そのままになってしまったからです。
松の木を下から見上げると、枝の途中に明らかに松とは異なる植物を目にすることが出来ます。後に知った事ですが、
ヤドリギは何も松にだけ着床すると言うことはないようです。僕らが子供の頃、山の中の大きな木と言えば赤松が主体
でした。そんな関係で松の木に根を下ろしたヤドリギを目にすることが多かっただけの話です。
ヤドリギが根を下ろすと言っても根は見えません。と言うよりはヤドリギの根は松の木と一体化してしまっているから
です。栄養は全て松の木の栄養を横取りしているわけです。ヤドリギには小さな実が成ります。実の中には餅のような
粘り化のあるものが詰まっており、それを口の中に少しずつ溜めては大きくしていきます。とはいえ小さな実ですから
まとまった量になるまでには、相当量を口に溜めなければなりません。結局途中であきらめて吐き出してしまうことに
なってしまいます。
しかし、大量に集めれば鳥もち程度の粘着力のあるものです。こんなねばいものであったからこそ鳥たちがいったん
取り込んで、未消化のまま排泄されると木の枝に種と一緒にくっついて、そこで根を下ろすのだと思います。
そんな姿も赤松が松枯れ病で少なくなくなってしまい、目にすることがなくなってしまいました。先日、福田公園の
クロガネモチの木にヤドリギが着床しているのを目にすることがありました。松ではなくても条件さえ整えばどんな木に
でも根を下ろすこの木のたくましさを実感しました。
水泳
夏は水泳の季節です。運動の苦手な僕にとっても唯一、人並みにはついていけるスポーツでした。その理由は、この
当時としては珍しく学校にプールがあったからです。6月の雨降りの日など、まだ肌寒さを感じるような日であっても
水泳の時間がありました。そんな訳で、否応なく水泳と付き合うことになり、おまけに体力検定のように課題を一つ一つ
クリアしていかなければなりませんでした。
13mを泳ぐことから始まって、25mを潜ったままで泳ぎ切るようになるまでの、いくつかの階級がありました。体育の
時間毎に練習をして進級テストを受けるのです。僕は息継ぎなしに25mを泳ぎ切ることが出来ず、何度もテストを受け
直しました。この時間になると逃げ出したいような気持でした。
そんな僕でも水泳が遊びとなると別でした。片山病の危険があるので遊泳が禁止されていた高屋川でも泳ぎました。
また、毎年のように一人や二人犠牲者が出ていた池でも泳いでいました。どの池でもすり鉢状になっていて、一旦岸から
離れてしまうと向こう岸にたどり着くまでは足を着くことは出来ません。おまけに表面と少し下の方とではかなり温度差が
ありました。この温度差がけいれんを起こさせたり、心臓に負担をかけたりするらしいのです。従って、池で泳ぐときには
常に危険が伴っていました。
おまけに池には菱などの水草が繁殖していて、泳いでいても体にまとわりつくのです。少しなら何でもないことですが、
たくさん巻きつくと大変な事になってしまいます。何度かヒヤリとしたこともありましたから、そう度々は行けませんでした。
水がきれいで水草の少ない奥池では毎年のように犠牲者が出ていました。水草が少ないのは、水が冷たいという
証拠でした。澄み切ったきれいな池には人を引きずり込むような魔物がいたに違いありません。川も池も泳いでみたいと
いう誘惑に駆られるような場所ではありましたが、どちらも危険な場所だったのです。
2002年5月19日掲載
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スケーター、自転車
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ぺちゃこ、ヤドリギ、蝋石山
水泳
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