今、心の時代

内外の殺伐たる事件の数々を見る時、これが人間のなし得ることなのだろうかと考え込まされてしまいます。しかし、
全ては紛れもなく私達人間が起こした事件ばかりです。
先日アメリカで起きたテロ事件も人間が起こした事件です。大阪の池田小学校に包丁を持った男が乱入し、多くの
子供達を殺傷した事件も人間が起こした事件です。有史以来、人間は歴史に残らないものまで合わせたら、いったい
どれくらいの事件を起こしてきたのでしょうか。人間の持つどの部分が、この信じられないような事件を引き起こす原因
になっているのでしょうか。人間の脳を解剖学的な見地から検証してみようという試みがなされているようですが、未だ
解明されてはいません。人間の脳、すなわち人の心には未解明な部分が多すぎるのです。
だからこそ宗教が生まれ、宗教によって無軌道な行動を諫め、悩み多き人の心を慰めて来たのではないでしょうか。
しかし、繰り返される数々の過ちを見るときに、容易には解決できない根深さを感じます。あるいは、人間自身では
永遠に解決し得ないのではないかとさえ思えて来るのです。しかし、だからといって、そのままにしておけば良いという
ものではありません。何とか解決の糸口はないものか、みんなで考えていきたいと思い、このページを開くことにしました。
2002年1月2日掲載開始
教育の中から心の豊かさを(音楽教育を考える)
音楽は感性に訴えるものがあります。悲しい曲はもの悲しく、楽しい曲は心をうきうきとさせてくれます。小学校の頃、
習った唱歌は未だに心の中に自分が作り上げた風景や情景として残っています。軍歌は戦場に赴くものの心を奮い
立たせます。行進曲は運動会の思い出とつながり、心を高揚させます。
このように音楽は心に直接働きかけて、とらえて離しません。音楽が嫌いだという人は恐らくいないのではないでしょうか。
ジャンルこそ違え、みんな音楽は好きです。従って、難しい音楽の理論よりも、みんなで良い歌を歌い良い音楽を聴かせ
たいものです。今の子供達は生まれると同時に様々な音楽の中で育ています。従って、音楽に関する感性には素晴らしい
ものがあります。私たち大人がついていけないようなテンポの早い曲でも何の抵抗もなく受け入れ自らのものにしています。
先日、教科書に取り入れられてきた小学校唱歌と言われるものの中から多くのものがなくなっていくという話を聞きました。
すでに相当数が消えてしまっているのではないでしょうか。確かに歌詞が口語調であったり、今日失われてしまっているもの
やら死語と化してしまったものなど時代に合わなくなっているものも少なくありません。しかし、そのメロディは非常に洗練され
たものであり、言葉の意味が理解され、その景色の中に入り込む事が出来ればメロディや歌詞の中に込められた情景や
景色を彷彿とさせるようなものが少なくありません。それだけ素晴らしい音楽であるということではないでしょうか。ロックも
ヘビメタも、それはそれなりに良いのですが、子供たちにはこんな音楽も聞かせてやりたいと思っています。
歌詞の意味が理解できないのであれば何故解説してやらないのでしょうか。今の世の中、映像もいっぱいあるのですから
必要とあれば映像をもとにして解説も出来るのではないでしょうか。失われた景色であっても人間の感性に時代の変化は
ありません。美しいものは美しい、心安らぐ景色はどんな時代にあっても心安らぐものではないのでしょうか。
多様な能力を引き出すのが教育(画一的な人間を作ろうとし過ぎてはいないか)
十人十色という言葉があります。つまり十人いれば十人の個性があると言うことです。スーパーマンのように何でもOKと
いう人もまれにはいるでしょうが、大半は平凡な人間です。しかし、平凡だからといって何の取り柄もないというのではあり
ません。得意なものもあれば、不得意なものもあるということです。走るのが早い者もいれば木登りの得意な者もいます。
つまり、みんなそれぞれに異なった得手、不得手を持っています。学校教育は一定程度の共通ベースとなる学力を身に
つけさせるため画一的な教育にならざるを得ないことは、いか仕方のないことです。しかし、勉強についてくることの出来る
子もそうでない子もいます。ついてくる事の出来ない子を切り捨ててしまったらどうなるのでしょうか。他に優れた面を持って
いても切り捨てられたその時から、持っていたすべてのものを世に顕すことなく終わってしまうかも知れません。子供の優れた
面を見いだしてやる事が出来るのは、親であり学校の先生ではないでしょうか。
世の中には計算の得意な者ばかりでもいけません。計算が得意な者がいて、物を作ることが好きな者がいて、人を喜ばし
たり楽しませたりする者がいなければ、画一的な人間ばかりで無味乾燥な世の中になってしまいます。色んな人間がいて
こそ、この世の中なのです。
子供に英才教育を施すのは、その子にそれなりの才能があってのことで、子供の好きな事、得意な事をもっと育ててやる
そんな教育があっても良いのではないでしょうか。
歴史教育は時代に即したものを(今の世において事件になっていること)
歴史教育なるものの思い出をたどってみると妙に印象が薄く、ただただ試験のために年号ばかりを覚えたという印象が
あるのは何故でしょうか。それは歴史がつまらないのではなくて、教え方や教える内容によるのではないでしょうか。かく
言う私も考古学のように土器を掘ったり、昔の物を見たりするのは大好きでした。しかし、体系だった歴史となるとまるで
興味は湧きませんでした。
それは歴史教育に人間の姿が見えてこないのです。歴史は人間が存在するから面白いのです。と言うよりは歴史その
ものが人間の歩んできた足跡なのです。人間の存在しない歴史はあり得ないのです。歴史に登場してくる人物はいずれも
生々しい人間そのものです。いかに英雄といえども泣き叫び、思い悩みしてきたはずです。彼には彼の人生があり、彼自身
が歴史を作ってやろうなどと思ったこともないはずです。生々しい人間が精一杯生きてきた過程の中で歴史は作られて来た
のです。もちろん歴史教科書には出てこない多くの人たちの歴史もあったはずです。
それらのすべてが歴史の背景にはあるのです。従って、年号を覚えさせる以前にそれら人間自身が演じてきた生き様を
教えるべきではないでしょうか。そうすれば歴史教育は決して退屈なものではなく、もっと生き生きとしたものになるはずです。
歴史は繰り返すと言います。何故でしょうか。それは人間というものの思考回路が今も昔も全く変化していないからではない
でしょうか。時代背景は変わっても繰り返す愚かな出来事には枚挙のいとまがないくらいです。そんな人間の愚かさを教え
学ばせることも大切な歴史教育ではないかと思うのです。
不思議でならないのは世界史と日本史を別々に教えていることです。いかに時代を遡ろうとも日本の歴史と世界史とは
決して無縁ではないはずです。むしろ無縁どころか大陸から遠く離れた辺境の地ではあっても平安時代には象も来たし、
目の色や肌の色の違う人もたくさん来ていたと言います。そして大陸で蒙古がアジア大陸を席巻したその余波をかって
日本にも二度に亘って攻めてきました。元寇の役です。日本からもたくさんの人が大陸に渡りました。そして、黒船が来て
鎖国の夢は破れました。その時から長い日米のつきあいは始まりました。明治、大正、昭和というわずかな期間にも大きな
世界戦争が二度もあり、その一方では、この小さな島国である日本も重要な役回りを演じてきました。役者にたとえるなら
主演とまではいかなくても主演に次ぐような役回りであったに違いないのです。これら生々しい歴史を教えなくて何を教える
と言うのでしょうか。アジアの国々が何故日本の再軍備を恐れているのか、何故、靖国神社への参拝に批判的なのか
正しく歴史を教えれば自ずと理解できることです。今すぐにでも歴史教育のあり方そのものを考えるべきではないで
しょうか。文部科学省の仕事は歴史教科書の書き方を検定することではなく、生きた教育が出来る現場を作ることです。
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