幸福論

常日頃、幸せとはいったい何だろうかと考えることがあります。人それぞれに感じ方も考え方も異なるので、一概に
これだと決めつけるわけにはいきませんが、いずれにせよ、上を見ても下を見ても切りのないものだと思うような気が
しています。
世界を見渡せば今でも飢えに苦しんでいる人がたくさんいます。病に苦しんでいる人もたくさんいます。飢えにも病にも
苦しんでいなくても、今の幸せに満足していない人もいます。有り余るような財産を持ちながら尚もお金に執着している
人もいます。お金や財産があるが故に親兄弟や親戚同士で歪みあっている人達もいます。権力に固執するあまり周辺
が見えなくなっている人もいます。
本当の幸せとは一体何でしょうか。財産でしょうか。お金でしょうか。地位でしょうか。セックスでしょうか。それとももっと
異なる何かでしょうか。
高僧と言われ後世に名を残すような人達は清貧に生きてきました。一説によれば晩年の良寛様は小さな庵に一人住み、
自然を間近に感じながら、村人や子供を相手の質素な生活をしていたと言います。庵には托鉢に必要なお椀と寝起きの
ための粗末な夜具程度のものしかなかったと言います。本当にそうであったかどうかはともかく、あっても不思議ではない
ような気がします。大きな家に住み多くの雇い人にかしずかれ贅沢な食べ物を口にしていたのでは、とてもあのように
心優しい俳句や短歌は残せません。清貧で雨露凌ぐだけの住まいであったればこそ自然を身近に感じ、村人や子供達
との距離も近かったのではないでしょうか。
そんな生活でも人間は生きていけるし、幸せを感じることも出来るのではないでしょうか。かくいう私自身、色んな欲が
あり、欲からの執着は絶ちがたいのではありますが、何とか良寛様のようにありたいと思っています。
自然の移ろいと伴にある。こんな幸せはないのではないでしょうか。春夏秋冬、巡り来る季節を身近に感じながら生きる。
そんな事が日頃の生活から遠くなってしまいました。自然が周辺から遠ざかったのではなく、私達自身の心が自然から
離れてしまったからではないでしょうか。ビルとビルの谷間にも自然はありますし、身近な公園にも四季は訪れます。
しかし、仕事だけやお金や目先の快楽にだけに生きていたのでは自然を感じることもなく、ただ目先の事だけしか目には
入らないのではないでしょうか。ポプラ並木にも秋は訪れますし、路面電車の音にも冬を感じる事は出来ます。ふと覗いた
ショーウインドウの中には春が宿り、若者達のファッションには夏を感じます。自然の移ろいは私達自身の心の中にある
のだと思います。
余談になりますが、皆さんは「ロビンソンクルーソー」という小説を読まれた事があるでしょうか。嵐に遭い船から投げ
出されて無人島に漂着します。そして島での孤独な生活が始まります。ともすれば絶望感に陥りがちな心を励ましながら
日一日と島での生活を整えていきます。いつしかそんな生活にも慣れ、孤独ながらも島での生活を楽しみ始めます。
生活用品を作ったり、住まいを快適にしたり、家畜を飼ったりします。孤独さを癒すには充分ではない生活ですが、いつか
帰る事が出来る日の事を信じながら生きる希望へと繋いでいきます。
人間は心の持ちよう一つでどのようにでも変化し得るし、孤独も生きる希望へと繋げていくことが出来るのではない
でしょうか。私達はロビンソンクルーソーではないのですから、もっと夢や希望を持ち、ほんの些細な事でも幸せと
感じるような柔軟な心を持ち、生き生きとした人生を送っていきたいと思うのです。
2002年6月8日掲載
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