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あわただしく時が過ぎていきます。次から次へと事件が起き、どんなに大きな事件や人の噂になったような
事件でも、いつの間にか忘れられてしまいます。しかし、どの事件も、すべては人間自身が起こした事件です。
この事件もつい先日、新聞やテレビをにぎわせたばかりですが、皆さんはまだ覚えておられるでしょうか。
この事件は保険金目当てに母親が夫を殺し、更に我が子まで殺したという忌まわしい事件です。こんな事件に
出くわすと、何とも言えぬほどの絶望的な思いと、人間という者の業(ごう)の深さを感じずにはいられません。
動機が何であるにせよ、母親が自分の腹を痛めて生んだ子を殺すなどと言うことがあって良いのでしょうか。
話しは変わりますが、幼児虐待についても、この問題の根は大変深いようです。虐待をしている親自身も、
かつて自分の親から虐待を受けたとか、愛情に飢えた幼児時代を過ごしたとかというケースも多いようです。
子育ての事を真剣に考えすぎるあまり、子供を折檻して傷つけたり死に追いやることなどもあるようです。
一度暴走をはじめると、自分で自分を抑えることの出来ないような若い母親もいるようです。
町にあふれる子ギャルや若者達の行動を見たり聞いたりしていると、この子達が母親として、あるいは
父親として、ちゃんとした子育てが出来るのだろうかと深刻に考えさせられてしまいます。
こんな状態が、改善されないままに世代から世代へと続いていくことになれば、事態は加速度的にひどくなる
ばかりのような気がします。
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学級崩壊や家庭崩壊等を見るにつけ聞くにつけ、社会の基本になるところで何かが大きく崩れはじめて
いるような気がしてなりません。あるいはもう後戻りできなくなるところまで来ているのかも知れません。
この原稿を書いているときにも、二つの大きな事件が発生しました。いわゆる通り魔事件です。
一件は東京、もう一件は下関での事件でした。いずれも刃物を持った犯人が無差別に通行人や駅で電車を
待っている人達に襲いかかった事件でした。
社会に不満を持っていた。むしゃくしゃしたからやった。誰でも良いからやりたかった。
動機は大変単純で、それだけに恐ろしい事件です。誰にでも多少の不平や不満はあります。
しかし、確たる動機もなく、ただむしゃくしゃしていたからやったという衝動的な行動が大変恐ろしく不気味です。
非常に短絡的な行動に驚かされます。そこまで病んでいる現代社会の病的な部分に、大きな衝撃を受けます。
人間の隠された暗い部分をかいま見たような気がします。
現代の世の中は、すべての分野で、かってないほどの混乱の中にあります。政治的にも経済的にも社会的にも、
もっと大きく言えば世界的な混乱期といえるでしょう。地球上の人口が60億人を越えたと報じられましたが、
広い地球とは言え、人間が居住できる地域は限られています。この限られた空間に、多くの人がひしめいている
のですから、息詰まるような状況と言わざるを得ません。
日本においても狭い東京に全人口の一割近い人が住んでいるのです。その環境は決して健全な状態とは
言えません。よりよい生活を求めて多くの人は都会に集まってきます。
開発途上国でも、わずかばかりの穀物では満足できなくなった人達が、よりよい生活を求めて都会に流出
しています。そして、人のいなくなった農村は荒廃をしていきます。農村が荒廃すると更に流出に拍車が
かかります。こんな悪循環が、ずっと続いています。
しかし、都会には厳しい現実が待っています。集まってきた多くの人を食べさせていくだけの職や余裕はないのです。
ましてや、今日の日本のように経済が下降線をたどっている時は尚更のことです。
新宿や上野の公園などには、多くの職に就けない人達が浮浪者として集まっています。
そんな不健全な状況の中では、勢い刹那的な生き方しか出来ないような人が増えても不思議ではありません。
どうにでもなれというような投げやりな気持ちが、犯罪を引き起こす原因にもなっています。
今さえ楽しければ良いというような、刹那的な生き方しか出来ないような若者達が、増えても不思議ではない
ような気がします。
本来模範となるべきような立場にある経済界や、政治家、官僚、警察官といった人達までもが、人の道に
あるまじきような事をしています。そんな状態ではとても子供達に素直に育てとは言えないのではないでしょうか。
自らもしっかりと襟を正すべきであります。
車から公道に平気で空き缶やゴミを投げ捨てていく。家から持ち出したゴミを山の中に投げ捨てていく。
若い女性が恥ずかしげもなくくわえタバコで車の運転をする。子供を車においたままパチンコに熱中する
若い母親。電車の中で席を譲ろうともしない高校生。朝から電車の中で化粧をしている女子高生。
ジベタリアンと言われるような、電車の中であろうが道縁であろうが、ところ構わず座って、ものを食べたり、
ふざけたりしている若者達。いったい、この国はどうなっているのでしょうか。
他人に迷惑をかけていても知らぬフリで、子供をしかろうともしない若い親たち。たまりかねて注意をしよう
ものなら、逆に子供をかばい、にらみ返してくるような始末です。
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孔子は「衣食足りて礼節を知る」と論語に書いています。しかし、精神の荒廃は、ものが豊かになればなるほど、
進んでいくのは、いったい何故なのでしょうか。戦前や戦後の貧しかった時代の方が、はるかに人間らしいものの
考え方や、生き方が出来ていたように思えます。「衣食足りて礼節を知る」と言うのはウソなのでしょうか。
私達は今、これらの現実を真剣に考え、反省してみなければならないのではないかと思うのです。
旧約聖書に「ソドムとゴモラ」の話があります。主人公ロトが住んでいたソドムとゴモラは淫乱と退廃の街でした。
神の使いが来て、街は焼き払われてしまいます。神の使いに促されたロトと娘2人は危うく街を逃れ、
助かるのですが、街に未練を残したロトの妻は、罰を受け塩の柱になってしまいます。
天地創造という映画を見た人は、このシーンを思い出されることと思います。
そう言えば、天地創造でのクライマックスは、地上のものすべてが、神の怒りにふれて大洪水となるのですが、
何かしら今の世の中を予言しているようで不気味です。
人間は過去幾度となく、愚かなことを繰り返してきました。お釈迦様は、お釈迦様の生きた時代の世相を見て
人間の本質の中に、性懲りもなく、愚かなることを繰り返すものだという事を見抜いておられたようです。
般若心経などにも、そういった愚かなる人間への戒めを繰り返し述べておられます。
他の多くの宗教家達も様々な形で繰り返し繰り返し、人間の生き方を教え諭しています。それだけ、人間という
ものの本質の中に、過ちや愚かなることを繰り返しやすいものだという事を端的に物語っています。
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今一度、一人一人の人間が、自分自身を見つめ直し、生きることの意義、家族との関係、周りの人との関係、
自然との関わり方等を考えてみるべき時ではないでしょうか。
世も末だとか、歴史が世紀末なのではなく、人間そのものありようが問われているのが今の時代だと思います。
地球の歴史は人間が作って来たものです。歴史というものは、人間の存在を抜きにして語ることは出来ません。
その人間が、人間らしい生き方や、自覚を失った時、世界の歴史は終末を迎えます。
20世紀の終わりを人間の歴史の終末にすることなく、新しい21世紀は、人間らしい愛に満ちた生き方を、
取り戻す世紀としたいものだと思うのです。
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