
そのラジオは、ラジオと言うにはあまりにも小さく貧弱であった。部品がむき出しとなった小さな金属製の箱からは
長く細長い線が延びていた。アンテナ線だった。渡されるままにイヤホーンを耳に差し込むと、何と小さいながら鮮明
な声が聞こえるではないか。雑音の全くない透明感のある声は、どこかのアナウンサーがしゃべっているもののよう
だった。放送局がどこだったのか、NHKだったのか民放だったのか記憶に残ってはいないが、鮮明だった声だけが
妙に印象に残っている。
私達の周辺は、その衝撃的な経験がきっかけとなって急にラジオの製作ブームとなった。耳にした小さなラジオは鉱石ラジオと言うものであった。放送局から送られてくる電波の中から検波器という小さな部品によって音声となる
部分だけを取り出すという、実に単純な構造のものであった。
そんな簡単な構造のものでも電波を捉える事が出来たのは、当時、電波と言えばラジオ放送局からのものと、
ごくわずかに専門家が飛ばす業務用の電波位のものであったからではないだろうか。従って、今日のような混信も
なければ、雑音も少ない時代だった。そんな時代であったればこそ、こんな簡単な構造のラジオでも音声を聞き取る
ことが出来たのだと思っている。
私達は競ってラジオの組み立て方について解説した本を買い求め、遠く福山まで部品を買いに行った。自転車
で大峠(おおたお)の長い坂道を越え、天満屋の裏にある部品屋さんに通ったものである。手にした小遣いは、
わずかなものであった。その中から少しずつ部品を買い揃えていった。そうして、やっと組み上がったラジオから、
かすかに小さな音が出るのを耳にした時の感動を今も忘れない。どんな立派なオーディオ機器よりも素晴らしい
ものであった。
それ以来、高校を卒業するまで7年間、ラジオの熱中時代が始まった。近所で貰った真空管式ラジオを分解したり、
長い間、我が家における唯一の娯楽品であった真空管ラジオをバラバラにしたり、買い足した部品で新しい真空管式
のラジオを組み上げたりと、とにかく何度となく壊したり組んだりを繰り返したものである。その裸の真空管ラジオは
今も古い多くの部品と共に手元にある。家族は捨てろと言うのだが私にはなかなか捨てることが出来ないのだ。
高校時代は放送部に入った。そこはラジオマニアのたまり場であった。先輩から後輩へと受け継がれたラジオマニア
の伝統が生きていた。本来は放送部なのでラジオやアンプの組立などをするところではないはずなのだが、そこは
好き者同士の集まりである。話題は常にアンプやラジオのことであり私のような未熟者にはとうてい割り込めるような
状況ではなかった。私自身は部に籍を置いているだけの存在だった。彼らに比べると低レベルではあったが、それなり
に楽しんでいたような記憶がある。
勉強部屋だった薄暗い二階の机の上にいっぱい部品を並べて、はんだごてで部品を取り付けていた。松ヤニ入りの
ハンダから立ち上る煙に目をしょぼつかせ一心不乱だった。組み上がったのにうまく音が出ない時は、あちらこちらを
いじくって何とか音が出るようにしようとするのだが、そんな時に限って、シャーシ(部品を取り付けているアルミ製の台)
の裏側の部品に手が触れて、ビリッときて思わずラジオを手放した事も何度もあった。感電であった。
さすがに社会に出てからは組み立て熱は醒めたが、音へのあこがれと、その追求に終わりはなかった。次々とアンプ
やスピーカーを買い換えては、その音に飽きたらず、設備は次第にグレードアップしていった。初めは小さなレコード
プレーヤーとアンプ付きのラジオ、その後はセットのステレオ、そして、ばら売りのアンプやレコードプレーヤー、
スピーカーとエスカレートする一方であった。いつもかみさんからは文句を言われていた。その熱中時代は、
つい最近まで続いていた。
その後、私の熱中症はパソコンへと引き継がれて行くことになる。いったい、いつになったら、この熱中症をリタイヤ
する日が来るのであろうか。今も私は熱中時代のど真ん中にいるのである。
2001年6月14日掲載
2003年3月31日修正
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