性と人間

万葉集やあの有名な「源氏物語」などを読んでみますと、当時の男女の大らかな性風俗が伺えます。万葉集に出てくる
和歌の中には男女の恋にまつわる歌がたくさん詠まれています。大らかな性の時代であったことが伺えます。源氏物語は
光源氏を中心として宮中の女性達との様々な恋が描かれています。
この時代にしてこんな状態だったのですから、縄文時代や弥生時代はもっと形にとらわれない性の時代であったのでは
ないでしょうか。だからこそ日本列島の人口も急速に増えていったのだと思われます。むろん、多くの人口を養うには食料
の増産は欠かせません。それを支えたのが稲作であり、稲作には多くの人手を要しました。人手を確保するために産めや
増やせの状態だったのではないでしょうか。多産な女性が理想的な女性であったことも縄文のビーナス像から伺い知る
ことが出来ます。人口が増えれば、また食料が追いつかなくなる、人の増加と食糧確保とは追いかけっこのように近年
まで続いて来ました。
つい最近まで夜這いや若もの宿等の風俗習慣が連綿として受け継がれて来ました。足入れ婚もありました。それらは
全てセックスと無関係ではありませんでした。性は今考えるより、もっと大らかなものであったのではないでしょうか。性に
長けた女性が若者に性の手ほどきをする。事実、そんな事もあったかも知れません。
あの有名な葛飾北斎は春画と言われる男女の営みを筆巧みに描いています。一流絵師が飯のためにだけ描いたとは
とても思われないような大胆な絵ばかりです。江戸時代は中国から入ってきた儒教が支配した時代でした。そんな時代で
あっても性だけは別物として扱われて来たようです。
私達が子供だった頃、近所のおじさんや若い衆が集まって、酒が入ると必ず卑猥な数え歌が出ました。「ひとつでたほい
のよさほいのほいほい・・・・」と続く歌です。もちろんカラオケ等ない時代ですから、手拍子を叩きながら笑い転げながら
歌っていました。子供には理解できない内容でした。それでも何となく卑猥な男女の営みを茶化した歌であることは理解
できました。「ゆうべ母ちゃんと寝たときに変なところに・・・・」と歌の節(メロディー)は何かの節ではあってもきちんと数え
歌になっていました。いったい、いつの頃、誰が作った歌だったのでしょうか。ところが変われば歌の内容も異なりますが、
やはり、その地には、その地に根付いた大人の数え歌がありました。
行きとし生けるものすべからく性とは切り離せません。性を売る商売も随分昔からあったようです。それがいつの頃から
か管理されるものに変わってきました。江戸の吉原や京都の島原、神戸の福原などです。明治から大正、そして昭和に
なっても終戦後しばらくは遊郭なるものがありました。赤線と言っていました。何故赤線なのか良くは分かりませんが、
まるで隠語のように使われていました。女性保護の立場から売春禁止法が施行され、日本中から赤線は消えてなくなり
ました。1956年5月24日施行でした。赤線がある間、男性はそこに行って性の処理をすれば良かったのです。
小説家の永井荷風は遊郭とそこに働く女性を愛し、そこで働く女性達について「墨東綺譚」という小説に詳しく書いて
います。
戦前、飢饉などで田舎が疲弊すると多くの女性達が性の道具として赤線に売られて行きました。そこには常に暗い
悲しい話がつきまとっていました。天草の女性は遠くインドネシアの方にまで性の奴隷として売られていきました。
戦時中、日本軍が兵隊達の性のはけ口として従軍慰安婦なるものを連れ歩いたことは、あまりにも有名な事です。
ことほどかように、セックスと人間は切り離せないものとなっています。
性の欲求の対象として女性を求める男性と、セックスの受け手としての性を売るものとが存在する限り、この関係は
なくなりません。男性は幾つになっても、この性への断ちがたい思いから抜け切れません。それが今日話題となって
いる政治家と、その囲われものである女性との関係等ではないでしょうか。週刊誌で騒がれた某政党の幹事長等が
その卑近な例だと言えます。過去にも総理大臣を棒に振った人もいました。政治家なら妾の一人や二人いても不思議
ではないと言われた時代もありました。男なら性への後ろ暗さなら大なり小なりあることですから、政治家同士では誰も
金銭の授受ほど追求はしないようです。
男性は大抵、性にまつわる後ろ暗い思いの一つや二つは持っています。ただ、それを行動に起こすか起こさないかは、
その人の良心と少しばかりの勇気(?)のあるなしの違いかも知れません。
近年、セックスについては受け身だとばかり思っていた女性の方が案外大胆なようです。セックス産業に自ら身を投じて
いく女性も少なくないようです。ネット上ではソープ嬢と言われる女性達が大胆にも自分の性生活をあからさまに書いて
いたりもします。そんなことも含めて、まさにインターネット上は性の氾濫とも言うべき状態です。写真あり、映画ありで、
インターネットはこの業界の要求を満たすために進歩発展してきた感もあります。
セックス産業が繁盛する背景には、プロセス無しの直截なセックスの方が面倒くさくなくて良いという割り切り方もある
ようです。男性も女性もややこしい恋の駆け引き無しに、セックスが楽しめるというメリットがあるのかも知れません。
そういう意味からすれば、同じ自由奔放なセックスでも万葉の昔とはいささか異なるようにも思えるのですが。
最近、セックスは益々低年齢化しています。男性も女性も性の成長が早くなっているのかも知れません。性に対する
興味は自分の性への目覚めから始まります。すでに小さい子供でも子供なりの興味を持っています。そして、雑誌を
初めとして色んなところから情報が入ってきます。興味を抱かないはずがないのです。従って、友達からセックスの
体験談等を聞くと自分も負けじとばかり、簡単に性的関係を持ってしまいます。しかし、悲しいかな所詮はうたかたの恋、
簡単に別れが待っています。そして又、別の相手と交渉を持つというように、愛のない性的関係ばかりを重ねて行くよう
になります。
哲学者のように難しく語ろうとは思いませんが、男女のあやなす心のひだを解きほぐすような恋の駆け引きがあって
こそ、愛が生まれ本当の性的な喜びも生まれて来るのではないでしょうか。特に、女性の場合はその傾向が強いの
ではないかと思います。どうか、若い男性、女性諸君、直截なセックスに身を投ずる前に、恋の駆け引きを体験して
みてはどうでしょうか。そこに初めて人生のドラマが生まれ、本当の男女の恋が生まれるのではないかと思います。
光源氏のような華やかな女性遍歴は無理でも、一人や二人の異性との恋の駆け引きは体験してみると、人生がもっと
重厚なものになること間違い無しだと思うのですが。
2003年6月14日掲載
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