
保育園時代

私の記憶は保育園に通い始めた頃から始まる。保育園は私達が住んでいた長屋の横、のりつけ工場の糸干し場の
すぐ隣り、高い塀の中の西福寺(さいふくじ)にあった。西福寺の和尚さんが園長さん、西福寺の縁続きの同級生の
お母さんが保母さん、その他何人か保母さんはおられたと思うが子供の記憶なので定かではない。
親戚のあこねのかっちゃんと一緒に通い始めた。母が勤めていたわけではなく、別に保育園に行く必要などなかった
のだが友達がたくさんいるので、遊びに行っている内に通い始めたらしい。
ずっと後に聞いた話では親たちが知らない間に、二人が一緒になって保育園に行き、他の子供達と遊技などして
いたらしい。保育園の先生から「二人とも保育園が好きなようだから通わせてやったらどうですか」と話があり、はじめて
親たちも子供達が保育園に行っていたということを知ったらしい。
そんなことがあって早速入園の手続きをして貰い、晴れて「いろは保育園」の園児となった。
私は今でも保育園の園歌を覚えている。三つ子の魂百までもとはよく言ったものだ。
保育園での記憶はきわめて断片的だ。園芸会で劇をしたこと、お釈迦様の花祭り、お寺の境内、お寺の一部を改造
した教室の一部など、わずかな記憶しか残っていない。
保母さんの一人、伊藤先生が同級生の伊藤君のお母さんだと言うことを知ったのはずっと後のことだ。
そして伊藤君のおじさんが、このお寺の和尚さんで園長先生だと言うことを知ったのもずっと後のことだ。
この保育園は僕らが中学校に通い始めた頃もあったので、随分長い間神辺町の数少ない保育園の一つだった
のではないだろうか。
幼稚園時代
幼稚園は小学校の中にあった。幼稚園の年齢になった時、当然のことのように幼稚園に通い始めた。幼稚園には
杉原先生という大好きな先生がおられた。子供心にもきれいな先生だという印象があった。美人でスタイルが良く
当時としてはハイカラな服を着ていたような気がする。家は幼稚園に行く途中にあって、先生の家に寄っていくのが
楽しみだった。幼稚園には誰と一緒に通っていたのかは覚えていないが、近所の子供達と誘い合って先生の家に
寄り、先生と一緒に行くのが日課であったようだ。僕たちはきれいで優しい先生と一緒に幼稚園に行くことが楽しくて
たまらなかった。ずいぶんませた子供だったようだ。
ある時、隣の教室の先生が産休から出てこられ、先生の受け持ちの子供達が先生を歓迎する歌を歌った時だった。
先生が感激をして泣き伏してしまった。それをめざとく見つけたおませな僕たちが泣いている先生を冷やかした。
その時ばかりは、日頃優しい杉原先生がすごく怒って僕たちを叱った。先生に叱られた記憶はその時のことだけだった。
優しくとも厳しいところもある先生だった。子供心に悪いことをしたという後ろめたさがあって、気まずい思いをした思い出がある。
杉原先生も僕たちが小学校に進みしばらくして結婚された。福山の方に嫁がれたという話だった。生きておられれば
私の母よりは若い年齢だろうがそれでも70歳位にはなっておられるのだろうか。
幼稚園での思い出といえば冬に炊いていた大きなダルマストーブの思い出だ。燃料は石炭だったか薪だったか憶えて
いないが、お昼近くになるとこのストーブで弁当を暖めていたのを思い出す。
そして冬休み近くになると教室にクリスマスの飾り付けをして、冬休みの前にはクリスマスプレゼントとお年玉を兼ねたような
プレゼントを貰っていた。男の子は奴凧を、女の子は羽子板を貰ったような気がする。今でもその頃の写真が残っている。
小学校時代
僕らは晴れて一年生になった。幼稚園と小学校は同じ敷地内にあった。だから僕らにとっては小学校に上がっても
幼稚園の延長のような感覚しかなかった。一、二年生の時の先生はアメリカ帰りの石田めい先生だった。
優しい先生で僕らは先生に気に入られようと一生懸命だった。特に目立ちたがりやの僕としては、いかにして先生の
気を引こうかと一生懸命だった。夏休みに図書室の整理があるから手伝ってほしいと頼まれて、喜んで学校に行き
先生の指示されるままに本を運んだ記憶がある。その時貰った古本を大事に持っていた。確か高学年の専門書の
ようなものだったので、低学年の僕にはさっぱり理解できず、ただ持っていたと言うだけのものだった。
それでも先生に貰ったと言うだけでやたら嬉しかった。
先生の家は学校の近くにあった。どんな事情があったのかは知らないが、先生はお母さんとの二人住まいだった。
お父さんがいつ亡くなられたのか、何故、日本に帰ってこられたのか、僕ら子供には何も知らなかった。
先生は僕らが小学校を卒業した後も、しばらくは神辺小学校に勤めておられたようだ。その後、先生の消息を耳に
した時は、すでに亡くなられた後だった。結婚もされず独身のままだった。
先生が亡くなられた時、お母さんが生きておられたのか、先生一人だけだったのか定かではない。
寂しい最後だったようだ。
先生の亡くなられたと言うことをずっと後になって聞いただけで、一度もお見舞いに行けなかったことが残念でならない。
先生には小学校の一年生と二年生を受け持って貰った。絵が好きになったことも、作文が好きになったことも、みんな
この先生のおかげだったような気がする。ぼくらは絵日記を書いて提出していた。絵日記には先生のきれいな字で
先生からの感想が書いてあった。先生の優しいほめ言葉が励みになって一生懸命書いていた。そんなことから
絵を描くのも好きになったのだと思う。
二、三年生は小林澄子先生だった。女の先生ながら結構厳しい先生だったような記憶がある。
しかし、作文がうまくなったのは、この先生のおかげだと思っている。この先生の受け持ちの時、二度も作文コンクールに
応募して賞を貰っている。その時発行された作文集を今も大事に持っている。
人の縁と言うものは何処でどうつながっているものか分からない。私が高校を卒業して日本合成に入社し、水島工場
に転勤になった時、水島工場の総務課長をしていた小林さんが小林澄子先生の義理の弟になることがわかった。
小林さんは僕が神辺出身だということを知っておられて、神辺小学校の事を尋ねられて分かったことだ。
案外、世間は狭いものだと思った記憶がある。その小林さんも在職中に体調を崩されて辞められた。
そして小学校最後の先生が佐藤貢先生だった。先生は今も健在で先年同級生何人かと本当に何十年ぶりかで
遊びに行った。すっかりおじいさんになっておられたが、健康そうで昔のほっそりとした感じはそのまま残っていた。
広島の師範学校で勉強をされていたとき、校舎の中で被爆されたという話を聞いた。
男前でスタイルが良く、いつも講堂でピアノを弾いておられた。その当時ピアノ等という楽器はめったに目にすることは
なく、講堂に響き渡るピアノの音と先生の後ろ姿が妙に印象に残っている。
四年生までは女の先生だったので、男の先生が担任になって、いっぺんに大人になったような気持ちだった。
身体も大きくなり、ひ弱だった身体も随分丈夫になっていた。
僕が級長だったとき先生に思い切り叱られた事がある。
その時も、僕は随分強引に学級運営をしていた。先生は一言も口を挟まずずっと見ておられた。
僕のあまりにも強引なやり方に、クラスのものが総反発をしていたのだ。それでも僕は、自分の主張を曲げようとせず
突っ張っていた。議論は調整役もおらず、堂々巡りを繰り返していた。とうとう見かねた先生が、仲裁役となり話し合いに
入ってこられた。本来ならリーダー役である僕が、みんなの意見を聞いてまとめなければならないのに、その役割を
忘れていると厳しく注意された。僕自身も一旦言い出した手前、後には引けない状況にあった。まずいなと思っていた
矢先の事なので、先生の忠告がよけい身にしみた。
僕はクラスのみんなの前で、恥ずかしさと悔しさに涙をこらえながら謝った。
その時初めて、みんなとの協調とはどういうことなのかということを教えて貰ったような気がする。
今となっては本当に懐かしい思い出である。
先生からは卒業の時、卒業証書と共に過分な贈る言葉を貰っている。今も大事に持っている。
次回は中学校編に続く
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