
信仰は良いことだ。いかに物質的に満たされようとも、決して心まで満たされることはない。
人間には常に悩みがつきまとう。金持ちには金持ちの悩みがあり、貧乏人には貧乏人の悩みがある。
人間と悩みは切っても切り離せない。そんな心の悩みをいやしてくれるのが宗教である。
日本には、古くから自然崇拝を基調とした神道と、大陸から渡ってきた仏教とがあった。
そして、戦前戦後を通じて様々な新興宗教も生まれてきては消えていった。
ますます複雑化する現代社会にあって、新興宗教は姿や形を変えて、繰り返し私達に誘いの手を伸ばしてくる。
そして、当然の事ながら、その被害も増えている。宗教が信者を食い物にして肥え太るという事は、昨日、今日始まったことではない。
時に宗教は権力に巧みにすり寄って、権勢を欲しいままにしてきたこともある。
あるいは寄進と称して、莫大な財産を我がものにしてきたこともある。その有り様は今も昔も変わらない。
いったい、信仰の対象となっている神や仏が、何を欲しているというのであろうか。神や仏は実体のないものである。
実体のないものに、何故お金や財産が必要なのであろうか。仏像も寺院も全ては信者達の畏敬の念をあおるものでしかない。
元来、信仰は自分自身の心の中にあることを忘れてはならない。有名な「般若心経」には、一行たりとも仏の事も神の
事も書かれてはいない。人のあるべき姿を繰り返し述べているだけだ。
「法の華」が修行代と称して、莫大なお金を寄進させていたと聞く。
何の修行をさせようとしていたのであろうか。プロの僧や修験道であれば、人を導く者としての修行も必要であろう。
しかし、素人である一般信者にその必要性はない。私に言わせれば、信仰とは自分自身と向き合う事だと思っている。
従って、修験道がやるような荒行も修行も必要なことではない。
人間は弱い。弱いだけに悩みも多い。多くの場合が自分で自分を苦しめている。そして、はけ口のない苦しみから
逃れるために、自分の周辺のものをも巻き込んで、傷つけたり苦しめている。
このつらさや苦しみは、他人には理解できないし、癒すこともできない。出来ることと言えば、自分の経験を語ったり
悩みを聞いてあげるくらいの事である。最後は自分自身で解決する他はない。
心穏やかに、何ものにも煩わされることなく、水の流れや風のように自然に生きてゆけたら、どんなにか幸せな事であろう。
しかし、自然体で生きることほど、簡単なようで難しいことはない。それには自分自身の自我というものと、どう向き
合って生きるかと言うことになるのではないだろうか。
自我があるからこそ生きてもゆけるが、また、自我が勝ちすぎると様々な災いとなって自分自身に降りかかってくる。
両方のバランスをとって生きていくことが大切なことになる。
他人と対立をする、欲がでる、他人のことが妬ましくなる、他人よりは優越感を持ちたくなる。
物欲、性欲、食欲、いずれもなくてはならないものであるが、勝ちすぎると災いとなって跳ね返ってくる。
これらは全て自分自身が作り出している悩みなのだ。
人生長く生きても八十年。物事の道理が分かり始めてからでは、わずかに七十年足らずの生涯でしかない。
この短い人生を、いかに有意義に過ごすかという事こそ、真剣に考えてみるべき事ではないだろうか。
そのためには、まず自分自身を克服する事が必要だ。自分自身を克服することは、宗教に頼るのではなく自分自身と
向き合うことではないだろうか。くれぐれも新興宗教の罠にはまらないようにしなければならない。
決して、お金と引き替えに、苦しみを取り除くことは出来ない。
繰り返すが、苦しみを取り除くことが出来るのは、自分自身であることを忘れてはいけない。
信仰はそのための心の支えであることを忘れないように。
2000年5月11日掲載
この記事を書いているときに、「法の華」の幹部が逮捕されたというニュースを耳にしました。
誠に遅すぎた逮捕と言わざるを得ません。800億円もの大金をかき集めていたと言います。
それだけ多くの被害者の方々がおられるのでしょうが、被害者自身も、もっと何が真実かを見極める目を養わなければ、
今後も、この種の被害は増え続けるに違いありません。
どうか、私たち自身も自己責任において信仰と向き合うようにしていきたいものです。
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