飽食時代のお寒い事情
巷は狂牛病騒ぎで大変です。先日も焼き肉屋の側を通って見ましたが、この騒ぎさえなければ、賑わっているはずの
時間帯にも関わらず駐車場は閑散としていました。きっと、焼き肉屋に行くことを敬遠している人が多いのではないで
しょうか。人間の心理というのは微妙なものです。すでに口にしているかも分からない過去のことは考えないことにして、
安全宣言が発せられ、これから市場に出回るものの方が安全だと言われても容易に信じようとはしません。政府の言う
ことや、やることをまるで信じていないからかも知れません。牛肉を食べないからといって死ぬようなこともないわけです
から、もう少し様子を見てということなのでしょうか。
狂牛病という奇妙な病気も飽食の時代に対する一種の警告なのではないでしょうか。くだらないテレビ番組が多い中
でも、最も愚劣な番組の一つに大食い選手権なるものがあります。限られた時間内にどれだけの量を食べるかという
競争です。地球上至るところに飢えた人達が何万人いや何十万人といるというのに恥も外聞もなく、よくもまあ、こんな
くだらない番組を作るものだと思います。そんなくだらない番組を見ている私達自身も反省しなくてはならないと思います。
こんな事をしていると、きっと手痛いしっぺ返しを食らうに違いないのです。
日本は食料の自給率がカロリーベースで41パーセント、飼料を含む穀物ベースで28パーセント、日本人が口にする
食物の半分以上が輸入だと言います。こんなものまでと思うようなものも輸入しています。自給自足が出来ているのは
あるいはお米だけかも知れません。そのお米だってカリフォルニア米がにぎりめしやにぎり寿司となって輸入されている
と言います。
確かに輸入した方が安いのだろうと思います。しかし、それは輸入先の労働賃金が安いからであって、栽培にかかる
手間も肥料も変わらないはずです。その上に船代だとか航空運賃が必要なわけですから、それが本当に安いと言える
のでしょうか。環境問題が地球規模で叫ばれている時代に、排気ガスをまき散らして飛ぶ航空機に依存していて良いの
でしょうか。そして、資源という面からは地球規模でのエネルギーの収支を考えなければならないと思うのですが。
自分たちに必要なものは自分たちの手で作る。このことをもう一度考え直して見たいものです。
本当のグルメとは
おいしいものを求め始めたら切りがありません。究極の旨いものなどあるのでしょうか。私は先日おなかをこわしてしまい
食欲が全くありませんでした。しかし、口だけは卑しく食事になると食卓に向かい口を動かしていました。全くの習慣のような
もので、おなかが空いたから食べるとか、これはおいしいと感じることなく口にしていました。実にもったいない話です。一食や
二食抜いたからと言って決して飢えて死んだり、栄養失調になることはないはずです。
それから程なくして健康は回復し、元のような体調に戻りました。同じものを食べたり飲んだりしてもこんなにも味が変わる
ものかと思うほど食べ物がおいしいのです。健康な時には案外気づかなかった事が、体調を崩しそれが回復することによって
気づいた事なのです。健康こそは最大のグルメなのです。健康に勝るグルメはないのです。その上、おなかが空いていれば
何を食べてもおいしいのです。
そういえば子供の頃、間食もせず遊び疲れて家で食べる夕食のおいしかったことを思い出します。もちろん育ち盛りでした
から体が要求していたという事もあるでしょう。今とは比較にならない粗食でいたが大変おいしかった事を思い出します。
このように健康で体が食べ物を要求しているような状態であれば、何を食べてもおいしいのではないでしょうか。
一年半ほど前にダイエットを行いました。何日間かは限られた食べ物だけで炭水化物は一切口にしない日が二週間続き
ました。ダイエット期間が過ぎ、普通食に戻った日のビールのおいしかった事、今まで口にしたことのないような甘みさえ
感じました。このように体を飢えた状態にしておくことこそ健康の秘訣であり、究極のグルメではないでしょうか。
健康を保つには
最近、糖尿病であるとかコレステロールによる高血圧や脳血栓、脳溢血、心筋梗塞と言った血管に関わる健康障害や
王様の病気と言われる痛風等に苦しんでいる人が多々見られます。食べ物の不自由な時代や国ではあまり見られなかった
病気です。飽食の時代であるが故に、このような病気が増えてきたといえます。
人間の食生活は長く飢えに苦しむ時代を過ごして来ました。それはほんの一握りほどの豊かな一部の国を除いて、今でも
続いていることです。そんな窮乏状態に耐えながらも人間はここまで子孫を増やし続けて来ました。如何に人間が耐乏生活
に強い動物であるかという事が立証されています。それは人間だけと言うよりは、生命が共通に持っている強さかも知れま
せん。飽食には弱いけれど、窮乏には強いという生命の持つ特異性を考えれば、今の時代に生きる私達自身がまったく
理にあてはまらない生き方をしているということに気づかされます。
粗衣粗食、昔から言われてきた事ですが、いったん豊かな生活に慣れてしまうと、なかなか元に戻すことは困難です。
それでも耐乏生活を迫られるような日がいつか来るかも知れないという事を考えると、今から少しずつ粗衣粗食に慣れて
おくことも必要な事ではないでしょうか。
大きな店より小さなお店
大阪に月二回ほど通っていた時期がありました。その頃行きつけの店が小さな一杯飲み屋でした。カウンターがあって
奥に入ろうとすれば、他のお客さんの背中と壁との間を体を横にして通らなければならないような狭い店でした。その店は
いつ行っても満席に近いような状態でした。従って、時間帯によっては席の空くのを待っている人もいました。現に私も何度か
席が空くのを待ったことがあります。どうしてこんなにはやるのかと不思議でした。確かに味も良く、値段も手頃な店でした。
しかし、食い道楽といわれる大阪です。他にもいくらでも店はあったはずです。それでもその店に足繁く通うというからには
何かがあったはずです。
私はお店が小さいことがお客さんの心理に大いに影響していたのではないかと思います。だだ広いお店よりは肩擦り
あうようにして座る狭い店、ましてや順番待ちまでしている人がいる店、きっとおいしい店に違いない。入ってみるとなかなか
庶民的で居心地も良い。こんな事がいくつも作用してお客さんの深層心理をくすぐっていたのかも知れません。
そういえば岡山にもそんな店がありました。お兄ちゃんが一人で切り回している小さな中華料理店でした。夏のことなら
クーラーの利いていない店の中は蒸し風呂のようでした。お兄ちゃんはランニングシャツ姿でカウンターの中に立って
いました。流れた汗が鍋の中に入るのではないかと思うほどに額には汗が吹き出していました。カウンターの上に垂れ
下がった煤けたのれんは油が垂れるほどにべったりとしていました。それでもお客さんの絶えることはありませんでした。
満席とまではいかないまでも常に料理の順番待ちをするほどに賑わっていました。のれんの油の重さにその店の繁盛
ぶりが現れていました。
繁盛するのでもっとお客さんを呼び込もうとしてお店を大きくした途端に客足が遠のいたという事も少なくないのでは
ないでしょうか。妙にきれいなお店になってしまうと、何となく入りにくくなってしまう事も事実です。
カバヤキャラメル
私達が子供の頃、キャラメルと言えば甘いお菓子の代表のようなものでした。ましてやチョコレートなどは滅多に口にする
ことは出来ませんでした。キャラメルの代表は森永キャラメル、明治キャラメルでした。そんな中にカバヤキャラメルがあり
ました。製造元は地元神辺に近い岡山市にありました。岡山駅からほんの目と鼻の先にあることを知ったのは、私がこちら
に移り住んでずっと後のことでした。今はその工場も製造をやめており、大きな敷地と古い建物が残っています。
カバヤキャラメルの魅力は何といってもその付録でした。付録といえばあのグリコもそうでした。カバヤキャラメルの場合は
確かキャラメルに付いてくるカードを何枚か集めれば文庫本が貰えるというものでした。そのカードが得点制であったのか、
文庫本以外にも景品があったのか記憶は定かではありません。本が好きだった私にとっては景品が文庫本であったという
事だけが記憶に残っています。戦後の物資の不足していた時代です。文庫本とはいえ、ざらざらの紙に印刷された字の
かすれたような本でした。それでも表紙は硬い紙で出来ており、ちゃんとカラー印刷がなされていました。
この景品交換がいつ頃まで行われていたのか、二年だったのかあるいはもっと長かったのか、急速に経済復興をしていた
当時の日本にあっては一年、二年という単位が、すごく変化が早かったように思います。
文庫本はみんなで回し読みしていました。その内容を覚えていないところをみると、さして記憶に残るようなものではなく
乱読に近いような読み方だったのかも知れません。
こうして何年か続いたカバヤブームもある日突然うち切られる事になりました。人づてに聞いたうわさ話ですが、カバヤ
キャラメルの工場で事故があったというのです。キャラメルを作る釜の中に人が落ちて死んだというのです。買ったキャラメル
の中に人の歯が入っていたという、まことしやかなうわさ話が子供達の間に急速に広まりました。考えて見れば仮に人が
落ち込んだとしても、体が溶けるような事は絶対にあり得ない事なのですが、子供達は、そんなことを考えるような知識を
持ち合わせてはいません。こんなうわさ話があってカバヤキャラメルの熱は急速に冷めていったのです。
学校にカバヤキャラメルのキャーンペーンが来たのもこの頃の事でした。講堂で奇術などいろんなショーを見せながらの
キャンペーンでしたが、再び一時期のようなフィーバーは戻ってきませんでした。一つには豊富に雑誌や文庫本などが
出回り始めたからです。時代は貧しい時代から著しい経済復興の時代に入り始めた時期でした。
サッカリンと外米と脱脂粉乳
戦後の食糧不足の際、代用品でそっぽを向かれたものの中にサッカリンと外米と学校給食のミルクがありました。
サッカリンは砂糖の代用品でした。甘いものに飢えていた時代でしたから砂糖の供給が追いつきませんでした。砂糖の
入手が困難な事と値段が高いということで登場したのがアメリカ生まれのサッカリンという合成甘味料です。
今日では、砂糖の取りすぎということで代用の甘味料がもてはやされています。甘草から抽出したというステビアなる
ものが利用されています。同じ砂糖の代用品とは言いながら、サッカリンには妙な甘さであって、みんな敬遠してしました。
おそらくはほんの一時期出回っただけではないでしょうか。それでも強烈な印象で残っているのは、この代用品の代用品
らしい名前「サッカリン」に由来しているからかも知れません。
お米の不足をカバーしようとして政府はタイやベトナム当たりからインディカ米を大量に輸入しました。粘りけのない
妙に細長い色の黒いお米でした。炊くと妙な臭いがするのです。ましてや炊き立ての時はなおさらです。食に飢えていた
時代とはいえ長くは続きませんでした。おそらく我が家でも一回切りだったのではないでしょうか。それでもその時の
味と香りは強烈な印象で残っています。その後にインディカ米も何度か口にすることはありましたが、見た目こそ細長い
形にかわりはありませんが、色も白く臭いもありませんでした。古米であったのか輸入の際の長い航海で変質してしまった
のか定かではありませんが、おそらくは牛でもそっぽを向くようなものだったのではないでしょうか。
学校で長く悩まされたのがミルクの給食でした。いわゆるアメリカの食料援助として輸入された脱脂粉乳がそれでした。
ミルクとはいいながらミルクの旨み成分の半分は抜かれたものです。当時足りなかったのは各種の栄養成分だけでなく
カロリーそのものでした。ましてや育ち盛りの子供達です。カロリーの多くを抜き取られた脱脂粉乳は戦後の子供達の
栄養事情を下支えしたと言われていますが本当でしょうか。子供達の立場からすれば味もまずく、一種独特の臭いも
あって、時にはキャンセルしたいような事もしばしばでした。確かに生乳の圧倒的に不足していた時代でした。無理からぬ
事ではあったのでしょうが、今でもいやな思い出として残っています。
おかげで生乳を一滴も口にすることなく育った私達世代には、牛乳を飲むと下痢をするという人が少なくありません。
牛乳を分解する酵素を作り出すシステムは幼児時代に作られるのだそうです。その頃に牛乳に接していない私達世代は
牛乳を分解する酵素を作り出す体の仕組みが出来ていないようです。そんなわけで夏の暑い盛りみんなが冷えた牛乳を
一気のみする姿をうらやましく見つめています。
好きなものは体に良いもの
私は大変ショウガが好きです。焼き魚のおろしショウガ、寿司につける紅生姜、ちらし寿司の刻みショウガ、寒い冬に飲む
ショウガ湯、あの臭いと独特のからみが好きなのです。
おそらくは多くの人が必ず一つや二つは大好きだというものがあるはずです。これらは体が要求しているもの、あるいは
自分の体に相性が良いものだと思います。ショウガが好きだといって甘いものを食べるように次々に口にする人はいないと
思いますが、甘党の場合ちょっと困ります。甘いものが好きだからといってあまり食べ過ぎると体に良くありません。
甘いもの以外は好きなだけ食べても良いのではないでしょうか。我が家の家族はハッサクが大好きです。従って、我が家
には大きなハッサクの木が二本あります。毎年欠かすことなくハッサクを食べています。好きなものは体に良いものという
のが私の考えです。
2002年1月1日掲載
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