
先頃、私が子供の頃住んでいたという神辺の五軒長屋が取り壊されたという話を聞いた。
その話を聞いて、急に子供の頃の思い出話を書いてみたくなった。
取り壊された五軒長屋には私が神辺を後にする十八年間の思い出がたくさん残っている。
忘れてしまいたいと思うような貧しい時代の思い出と、甘酸っぱい懐かしさとが交錯する複雑な気持ちだ。
しかし、この年になるといやな思い出は忘れたり記憶が薄れてしまって、いささか感傷的な思いの方が勝っている。
そんなセピア色になった子供の頃の思い出を細い記憶の糸をたどりながら書きつづって見たいと思っている。
これは自分史である。
団塊の世代といわれた昭和16、7年頃から22、3年頃に生まれた人達が共有する、貧しくとも精一杯明るく
生きてきた子供時代の思い出話である。 2000年3月27日
長屋住まい
結局神辺を離れてしまうまでの18年間を、この長屋で暮らしたことになる。五軒長屋だった。
元は機織り工場だったそうで、それを改築して住居にしたと聞いている。
私の両親は京都に住んでいた。この間のいきさつは別のページに書いているので興味のある方は読んでいただきたい。
空襲が日に日に激しくなり、京都もいつ空襲に合うか分からないと言うことで、親父にすれば一時避難のつもりで
神辺に帰ったのだと思う。しかし、結局死ぬまで再び京都へ戻ることは出来なかった。
京都から引き上げて一時実家の平野に身を寄せ、その後この長屋に引っ越してきたようだ。
私がやっと言葉らしきものを話し始めた頃のことだ。
長屋にはいろんな人が住んでいた。向かって右隣には親父のお姉さん、私にとってはおばさん夫婦といとこ達。
左隣には気むずかしいおばさんとその娘。このおばさん達が出ていった後に、上品な一人住まいのおばさんが
引っ越してきた。その更に西隣には、私達が子供の頃、道上の方に引っ越してしまった家族。
その後に母がもっとも親しくしていたYさん夫婦と娘二人の家族。一番西の端には母が私を背中に負って福山の街を
歩いている写真に写っているSさん夫婦とその家族。この人達が引っ越した後には、精神病を病んで母も娘も自殺を
してしまったという気の毒な家族が引っ越してきて住んでいた。
大家さんは長屋の前の畑を挟んででんと立っていた大きな家のHさん。大家さんの家は総二階の大きな家だった。
子供の頃には何度か遊びに行って風呂にも入らせて貰ったことがある。とても普通の家の風呂とは思えないような
総タイル張りの大きな風呂だった。その頃の一般家庭の風呂と言えば、たいていは鉄の釜を使った五右衛門風呂
だった時代の事である。
長屋は井戸の水をポンプで汲み出して共同で使っていた。私の家ではこの水を大きな瓶に汲んでおいて使っていた。
炊事場は家の裏側に板囲いをし、これも又板で作った流し台を置いただけの暗い小さなところだった。裸電球が一個
だけの暗いじめじめした炊事場だった。家は一階に二間、二階は頭がつかえそうな低い天井で物置に使っていた。
そして後に私や弟の勉強部屋になった。
いとこ達が住んでいた隣には小さな川が流れていた。川を挟んですぐ隣には、私の家やいとこの家との縁続きである
杉原の染色工場があった。
長屋の裏、つまり我が家の炊事場として使っていた場所の裏には圧倒されるような大きな壁が立ちはだかっていた。
八仙という作り酒屋の倉の壁である。八仙は広大な敷地を持っていて、後に知った話だが五軒長屋の敷地も
この酒屋のものだった。
従って、開けている部分と言えば共同井戸として使っていた周辺のほんのわずかな土地だけであった。
便所は長屋の両端に一つずつという共同便所だった。もちろんその時代のことなので、俗に言うぽっちゃん便所、
くみ取り式の便所だった。子供の頃は下肥と称して畑や田圃に屎尿を使っていたので湯野の方からお百姓さんが
くみ取りに来ていた。
その後には畑を持っているものは畑に、それが出来ないものはお金を出してくみ取って貰っていたのではないだろうか。
その辺の記憶は定かではない。
風呂はなかった。従って大風呂と呼んでいた公衆浴場に行っていた。夕方早く行くと風呂はすいていて貸しきりのようなものだった。
湯も汚れておらず、きれいで大きな風呂を自由に使うことが出来た。
子供の頃は母親と一緒に女風呂に入っていたが、少し大きくなってからは親父と入ったり一人で入っていた。
今思えばさほど大きな風呂ではなかったような気もするが、子供の目には大きく見え、泳ぎのまねごとなどもしていた。
冬などは家庭の風呂ではとうてい味わえないほど体の芯までぬくもり、ぽかぽかとしたままで家まで帰っていた。
風呂の帰りには、風呂屋の近くの天ぷら屋でコロッケを買って帰るのが何よりの楽しみだった。
揚げたてコロッケの香ばしい香りとぬくもり、快い身体のほてり、貧しくとも満ち足りた子供時代の思い出だ。
私はわずかばかりの庭とも言えぬほどの土地に色んな花を植えていた。
とても花など育てたり鑑賞したりする余裕のなかった時代に、近所の花屋さんから雛菊を買ってきたり、アネモネを
買ってきたりして大事に育てていた。
近所に捨ててある花があれば貰って帰ったり、拾って帰って植えていた。山から松やツツジを掘って帰って植えたこともあった。
三つ子の魂百までもと言うが、そんな子供時代からの経験が現在につながっているのだと思う。
誰に教えられたわけでもなく、植物を育てることが本当に好きであったようだ。好きであったことと、子供の頃からの
長い経験が、植物を育てる事への独特の感のようなものを培ってきた。
自分で言うのも変な話だが、こと植物に関しては特異な感覚を持った子供だったように思う。
とにかく、この長屋で色んな体験をし、子供らしい自由奔放な時代をおくった。
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